ブログ移行のお知らせ
当ブログは以下のサイトに引っ越します。
リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌『紙魚はまだ死なない』
リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌『紙魚はまだ死なない』に参加しました。
リフロー型電子書籍化不可能小説合同誌というのは、つまり一次元的な文字の連なりだけでは実現できない表現を含んだ小説作品集ということです。
本誌は第三十回文学フリマ東京で頒布を予定していたのですが、文学フリマ中止を受け、以下のサイトで通販を開始しています。部数が限られている上に今後絶対にKindle化しない予定です。急げ!
自分が小説を買う判断基準の半分くらいは装丁や組版の好ましさに占められていて、それでうちの本棚にはもともとリフロー不可能な、紙面上の位置情報込みの表現が組み込まれた本*1がいろいろあって、というか積極的に蒐集していて、だから今回の企画は自分の志向とマッチしており書いていてとても楽しかったです。
主宰の笹帽子さんと、この状況で高品質の本を届けてくれたスターブックスさん、適切でタイムリーな判断を下した文フリ運営の方々に感謝を捧げます。
1917
『1917』を観た。『1917』を観ろ。
ねじれ双角錐群『心射方位図の赤道で待ってる』 in 文学フリマ東京@11/24
文芸同人:ねじれ双角錐群の第四小説合同誌『心射方位図の赤道で待ってる』を、11/24(日)開催の第二十九回文学フリマ東京(ブース:ク-39)にて販売します。
執筆者および作品内容は以下リンク参照。
nejiresoukakusuigun-kamimachi.tumblr.com
本誌を一言でいえば、神待ちSF幻想短編アンソロジーです!(?)
「神待ち」は、神による救済を待っている状態を指し、近年ではインターネット掲示板の文脈から「家出した女性が自分を泊めてくれる男性を探す」という意味で使われていました。今回、執筆者には「神待ち」という言葉をレギュレーションとして課し、その言葉の具体的な意味までは限定しませんでした。狭いテーマのようにも思われましたが、予想に反しバリエーション豊かな作品が集まったと思います。
全自動ムー大陸氏によるキュートな表紙も健在!マット感のある手触りが気持ちいいので、ぜひ物理本を手に取っていただきたく思います。
本誌の中で神を待つ人たちに何が訪れるのか、ぜひその目で確かめてみて欲しい。
アド・アストラ
アド・アストラを観た。君はアド・アストラを観てもいいし、観なくてもいい。
以下、致命的なネタバレがあるので閲覧注意だ!
- よかった点
- 航空宇宙工学の観点からの疑問(この分野に関しては素人なので間違っているかもしれませんが)
- 父親に声を届けるためだけにわざわざマクブライトを火星まで送る必要あった? 録音した音声を火星から送信するんじゃあダメなのか? それとも、マクブライトを宇宙軍の元に送るとか、別の目的があったのかな。
- 火星から海王星まで、光速でも往復何時間もかかるのでは? マクブライトのメッセージ送ってすぐ宇宙軍の人たちが返事を期待する雰囲気になってるけど、さすがにせっかちすぎるでしょ。
- マクブライトは火星から海王星まで八十日くらいで到達している(たしかに反物質ロケットだったら数日〜数十日くらいで海王星に着きそうな気がする)。一方、リマ計画で彼の父が海王星に到達するのにどれくらいかかったか。数年がかりという描写を見た気がしたけど、ぼくの間違い?
- 合ってたとしたら、リマ計画以後に技術革新があって短くなったのか? ちなみにボイジャー2号は地球から海王星に着くまでに12年くらいかかっている。映画の雰囲気的に、マクブライトの父親もこれくらいの時間がかかって到達しているイメージを持っていた。
- 間違っていて、リマ計画の時点で海王星まで八十日くらいで渡航できるなら、もっと調査のために海王星まで有人飛行していてもおかしくないのでは? リマ計画の失敗が、火星以遠への有人宇宙飛行を抑制していたということ? また、三ヶ月で帰れるなら、リマ計画の人たちも数年に一度地球に帰ったりしても問題ないのでは(費用はかかるが)? この場合、帰還をプログラムに組み込まなかった計画者が異常すぎる。
- あれ? 本当は太陽系外に行こうとしてたけどトラブルで海王星付近に滞在してるって話なんだっけ? 俺にはなにもわからない……。
- 反物質は要するに蓄電池みたいなもので、消費するものなんだけど、メルトダウンの意味がよく分からない。
- 核反応を推進力に地球に帰ってくるのにかかった帰還はどれくらいだったのか。反物質ロケットでも八十日くらいかかっちゃうわけだし。外部の爆発の衝撃で有効な推進力を得られるのかというのと、狙った方位に行けるのかという心配が頭をもたげる。ある程度の方向転換は出来るだろうが……。
- 物語
- 父を太陽系の彼方へ行かせた。これは、マクブライトの中にあった父と宇宙への固執と孤独との決別を示す。できすぎたシーンだ、まるで夢のように。
- 航空宇宙工学的な矛盾と考え合わせて、この映画の後半部分はすべてマクブライトの夢の中の話だろう。夢に入るタイミングにはいくつか候補がある。
- 火星で父親に自分の言葉で語りかけるシーン。あそこでマクブライトの心拍数が80を超えたことが、現実と夢を区切っている。
- 火星でケフェウス号に入るシーン。あんなにロケットの近くにいて無事なもんなのか?俺はこの分野に関しては素人だからよく分からない。あと学者たちが銃を持って有無を言わさず殺しに来るというのも現実離れしている。学者は対話が好きなんじゃないのか?
- 総評
- ドラマを優先した印象。宇宙でやる意味あるのか? 地球でやれ。西部劇にしろ。
- この映画に宇宙はあるが、そこに物理はかよっていない。それにより直ちに作品を否定するものではないが、宇宙の美しさと壮大さを都合よく借りた、いびつでピクチャレスクな作品だ。
ミヒャエル・ハネケの映画
友人と自宅でミヒャエル・ハネケの映画を7本連続で視聴して完全に発狂したのでネタバレ込みでそのときの感想を記録しておきます。
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愛、アムール
- 場面のつなぎ方がすごすぎる。「撮らない」という手法:決定的な場面を撮らずに次の場面が始まって、視聴者にその決定的な場面を想像させるということ。映画を見終わってしばらくするとその存在しない決定的な場面をありありと思い出してしまうほど、ハネケは視聴者の想像力につけ込んでくる。ハネケは視聴者の脳を使って映画を作っている。悪辣極まりない。俺の脳を盗むのを今すぐやめろ。
- 家の中のシーンしか存在しない。カメラの位置も固定されていて、閉塞感がすごい。結末、エヴァがすべての扉が開かれた家を歩くシーンで、こんなに開放的な家だったのかと驚かされる。
- 自分が自分ではなくなってしまうというアンの恐怖に実感がこもっている。これはアンを演じた人がヤバすぎる。そして、唐突にアンの自我が一気に失われた後の場面(エヴァとの会話が成立しなくなるシーン)をねじ込んでくるあたりは白眉で、ハネケはこうやって今回も現実と虚構のリアリティを越境してくる。
- ジョルジュがアンを殺すシーンの唐突さが素晴らしい。現実にそういうことが起きるときは、部外者からみればいつも唐突に見えるのだろうと思わされる。これがぼくらがリアリティと呼んでいるものの一端なんだよな。
- いかにも映画的な、作劇法とか演出のわざとらしさというものをハネケは嫌う。ここだけは唯一ハネケと気が合うところだ。
セブンス・コンチネント
- 主人公一家とわれわれ視聴者との間のディスコミュニケーションである。これが作中人物同士のディスコミュニケーションにならないという点に、長編デビュー作ならではの作家性が見られる。ハネケは、作品を鑑賞することによって視聴者にはたらく作用に執着する。ハネケ作品は視聴者を内包しようとしてくる。ここからファニーゲームに至るまで、この執着は一貫しているように思える。
ベニーズ・ビデオ
- ハネケの映画はいつもそうだが、撮影者 - 被撮影者の関係にたいへん自覚的な映画だ。撮影者であるベニーは、同時にハネケによって撮影されている被撮影者でもある。これによって、視聴者であるわれわれは、ハネケによって撮影されたベニーを鑑賞する存在であると同時に、ベニーが撮影した映像をベニーたちとともに鑑賞する存在でもある。作中に視聴者であるわれわれが取り込まれる。
- 他者(視聴者を含む)のベニーに対する共感できなさが際立つ。ベニーとその両親とのディスコミニケーションは素晴らしい。ちなみにベニー自身も少女を殺害した後に突然頭を丸めるなど、明らかに動揺している事がいちおう伝わってきて、この中途半端に分かるという宙吊り感がまた嫌らしい。ベニーを簡単に異常者にカテゴライズすることは許されない。ファニー・ゲームでパウルたちが一見して論理的に会話しているように見える恐怖と根は同じかもしれない。彼らにも論理と合理性があって、もしかしたらそれが理解できるのかもしれないと思えてしまうギリギリの境界を渡らされるのである。
ファニー・ゲームおよびファニー・ゲーム U.S.A
- パウルたちとジョルジュたち一家とのディスコミュニケーションである。これはまるでパウルたちがビデオゲームのプレーヤーであるかのようなディスコミュニケーションであり、まさにパウルたちが作者ハネケおよびわれわれ視聴者と同じレイヤーにいるということの明け透けな表現である。
- クライマックスの巻き戻しのシーン。これによってはじめて、物語の序盤からパウルは失敗する度にゲームのリトライのように巻き戻しながらこの結末までやってきたのだろうかと想像させられる。ループものの提示の仕方としてスタイリッシュだ。
- これほど残虐な描写を作ることが出来るということの驚異を、映像という媒体の驚異を、視聴者に見せつける事が本作の目的の一つであるように思える。これがあくまで虚構であることをメタ描写(パウルのカメラ目線、巻き戻し)で執拗に思い出させることで、作者の狙いを親切に教えてくれている(そうじゃないとさすがにセンセーショナルに過ぎる、というハネケなりの手心なのかもしれない)(俺は絶対にハネケを許さないからな)。
- オリジナル版の方が演技が切実というか、犠牲者の鮮烈な悲壮感が感じられる。USA版は、悪い意味での映画っぽさを感じさせた(でもこの「映画っぽさ」は、多分作品に内在する者ではなく、われわれ視聴者の頭の中に内在するものかもしれない)。
- アンが逃走中に最初の車をやり過ごして、二台目の車がやってくるシーン。ハネケの悪辣さがにじみ出た希有なシーンだ。
- ハネケは映像という表現手法に対して自覚的で、映像表現そのもののレイヤーで映画を作っている。ハネケは、われわれが住んでいる現実世界から逃れられないタイプの作家だろう。ハネケに王道ハイ・ファンタジー映画は絶対に撮れない。悔しかったら撮ってみろよハネケ。
隠された記憶
- 犯人から送られてきた映像を鑑賞するとき、ジョルジュたちとわれわれ視聴者は同じレベルにいる。ベニーズ・ビデオと同様に、視聴者を内包した映画である。
- 結局ジョルジュにビデオを送りつけてきた人物が何者なのか、作中では回答が用意されていない。でも、この映画を最後まで見れば自ずと解ってくることなのだが、犯人は作中人物ではないのである。本当は、監督であるハネケ自身が、ジョルジュにビデオを送りつけているのである。視聴者を内包した映画であるならば、作者をも内包していると解釈しても怒る人はいないだろう。
- つまり本作に於いて、ディスコミュニケーションの対象は作中に存在しない。この点はハネケの他作品に対して新奇な点と言える。
ハッピーエンド
- 今回見た作品群で一番印象が薄い。印象が薄いと言うことは、ハネケ作品においてはいい映画と言うことなのかもしれない。
天気の子を観た。天気の子を観ろ。
以下所感。ネタバレ含む。
- ボーイミーツガールの類型をド直球でやりつつ、しかし一般的に望まれる正しい終わり方を完全に無視して振り切っていく傍若無人な感じにやっぱりどこか新海らしさがにじみ出ていて最高。社会のいわば常識を壊して犠牲にした上で、でもこの世界ってはじめから狂ってるんだよね、とそれを肯定して生きていく姿勢が最高に愛おしいんだよな。これを少年少女たちの視聴と興行が期待される夏休みアニメでぶちかまして一切言い訳せずに開き直るのやってて絶対めっちゃ気持ちいいでしょ。
- エンタメとしての完成度は『君の名は。』に劣るんだと思う。でも個人的に『君の名は。』の出てくる要素全部が物語に回収されて収まるところに収まる感じが逆に引っかかっていたので、この荒削り感が愛おしいんだよな。
- 東京の汚いところの描写とか警察に追われる状況は、これまでの新海作品に出てこなかった部分だと思う。面白いのは、ネカフェに泊まったり東京の怪しい街に囚われることを、穂高たちはことさらネガティブに感じていなさそうな点。これは、穂高たちが当初雨が降り続くことを(須賀の義母の雨に対する台詞と相反して)ことさらネガティブに捉えていないことにもつながっている。この大人たちとの断絶が、世界を犠牲にする決断の正しさの根拠になっている。
- 過去作よりも内省が弱まっており、キャラクターと世界との外的なインタラクションが物語の原動力になっているように思う。これは、穂高と陽菜以外のキャラクターの存在感が増している(夏美の就活シーン、須賀と娘の関係が印象深い)ことにつながっている。過去作と異なり、群像劇を志向しているように思える。東京の汚いところの描写とともに、新海の新しい展開や挑戦の意思が見て取れた。
- 神的なものによる物語解決の説得力は、『君の名は。』と同様に弱く感じる。この部分はどこかに見落としたヒントがあるかもしれないので、次回視聴時に確認したい。
- 君の名は。はぼくを救わなかったが、天気の子はぼくを救ってくれた。ありがとう。