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鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

塩田明彦『映画術』

 

 

といったわけで、映画が本当に面白いのは、今ご覧になったように、上辺で語られている物語がある一方で、それとは別の次元で、もう一つの物語がスタイルとして語られているからです。

 

僕らはよく、役者が会話するシーンや泣いているシーンなどがドラマで、銃撃戦やチャンバラが始まったらそれはアトラクションなんだ、ドラマは停止状態なんだと思いがちなんだけけども、実はぜんぜんそうじゃなくて、殺人にこそ、「動き」の連続のなかにこそ、ドラマの核心が集約されている。

 

自分がある世界なり対象なりを描くときに、どういう「動き」を捕まえてくるか。三隅研次はショットの天才だと言いましたけど、ああいうシンプルな動きーー影の中の動き、按摩として背中を揉む、殺陣の中で相手を背負うーーそういうひとつひとつの非常に単純んな動きの中で、一人の人間の生き様を見せてしまう。言わばその人物の人生を、「1分間」で捕まえる。何十年に及ぶ人生の「1分間」が、平手造酒の背中に捕まった一瞬だったり、平手造酒を背負った一瞬だったりする。そうした「動き」を組み合わせたものーーそれが映画なんです。

 

映画には映画独自の言葉遣い、話法というものがあって、これまでも語ってきたように動線だとか、衣装の美術の設計だとか光の明暗だとか、とにかくありとあらゆる演出の技術と、それから作劇の技術が相待って、一つの世界を作り出していくんですね。その作劇と演出と演技が映画史上、最も単純かつ強力な形で結びつきあっていたのが、ハリウッドの古典的な話法というもので、そうした協力関係の中では、たとえ俳優の演技がシンプルで外面的でも、映画はものすごく多くのことを観客に伝えることができたんです。

 

つまりですね、そもそも音楽とは何か、歌とは何かってことを僕なりに定義しますとね、一つの感覚なり、感情なり、体験なり、そういうものに一つの形を与えてですね、それを永遠に記憶したい、反復したい、持続させて行っていう、そういう欲望による一つの「形式」の発見というのが音楽だとして、その形式っていうのが、実はものすごく抽象的なはずなのに、一度形を持ってしまったその抽象的な形式=音の連なりっていうのが、なぜか人の心を動かす。それは本当は抽象的なはずなのに、ものすごくリアルに存在する何かになっちゃう、しかも、そんなふうに一度かたちになってしまうと、そもそも土台にあった現実との対応関係に支えられなくても、音楽は平然と存在出来てしまう。(中略)

だから演技なら演技で、その演技というものがある瞬間、現実の単なる形態模写であることを超えて、あるかたち(「形式」)を持ったとき、それが現実の反映だから力があるんじゃなくて、もはや現実を超えて、一つのかたちがかたち自身の表現としての強さによって、あるリアリティを持ってしまう……人の心を動かすことができてしまうときにね、ああ、これは音楽だって……。

 

面白いことがわかりやすい言葉で具体例を交えて書かれています。映画の技法とかそういうのに足を突っ込みたい人が最初に手にすべき本なんじゃないかな。

危険なメタファー

雑感
科学も文学も、現実に起こった事柄を一般化することはできないのだと思います。たとえば物理屋がやっていることは、「想像上の現象」を考えて、それらを一般化することです。こうして一般化された法則を足がかりにして現実の事柄を理解しようと努めるのが物理屋の仕事になります。現実の事柄をすぐ一般化する人がメディアに露出していたら、それはただの出まかせおじさんであり、科学者ではない気がします。
 
文学でも、現実の出来事を一般化することはできないのでしょう。現実にあるのは、個々の問題だけです。一般化しようとすると、詳細を取りこぼしてしまう。その詳細こそが全てであるはずなのに、です。ヘロドトスホメロスを思います。ヘロドトスは『歴史』において、現実の出来事をそのまま記述しました。そこに一般化の入る余地はなかった。これに対してホメロスには一般化の香りがします。それは、彼が詩を書いていたからでしょう。彼はフィクションという「想像上の現象」を描いていたからです。ここは先ほどの科学者のくだりと同様に、「想像上の現象」を一般化することは可能なのです。これに対して、ヘロドトスの『歴史』を一般化する試みは無謀です。
 
ホメロスは、起こりうることを書いた。それは端的に未来を書いたということでしょう。物理屋も、つねに起こりうることを考える生き物です。起こりうることから、一般化して法則を導く。この、「起こりうることを考える」という点で、物理と文学はよく似ています。物理屋であるぼくが文学に惹かれる所以です。

神の視点

人の意思が介在しない完璧に無個性な語り、いわゆる神の視点による三人称の語りを実現するにはどうすれば良いか。
 
単に三人称で、語り手の独白などを廃し、進展する事象のみを淡々と語ってみても、それは神の視点による語りにはならないだろう。なぜなら、そこにはなにを書いてなにを書かないか、どの程度細部まで書くか、どこで改行するか、という取捨選択が含まれるからだ。取捨選択は語り手(あるいは書き手)の意思に他ならない。
 
アナロジーを挟もう。たとえば映画の語りはどうか。映画の語りをつくるのはカメラとマイクだ。カメラはなにを映し、どこにズームするかというのは、先ほど言った取捨選択なのであり、そこには人(語り手、または作り手)の意思が介在しているので神の視点ではない。
 
このアナロジーを続けて、では一度動作を始めたら取捨選択をしない定点カメラがあったとしたら、それは神の視点だろうか。防犯カメラを想像してみる。いわゆる神の視点にかなり接近したように感じる。
 
小説の語りに持ち帰ろう。防犯カメラのような語りとは何か。それは改行も句点も読点もなく、ただ目に入った人やものを一切の比重なく、固定された遠近法の中にひり出していくことだろうか。だとしたら、それは神の視点による語りなのか?
お そらくこれではまだ足りない。たとえば文章のなかのカタカナと平仮名や漢字の比率であったり、文章の語意のレベルであったり、その他のあらゆる要素が読者 に語り手および書き手の存在を想像させてしまうだろう。人が文章を読むところには必ず解釈と、読み取られる意思と、架空の語り手が現われる。
 
では八方ふさがりになりそうなので反対の方向に行ってみよう。語りの中から人の意思を削って完璧な無個性をつくるのではなく、無限の個性が重ね合わされた語りを想像する。スペクトルの合成が白色をつくるように、翻ってそれは無個性にならないだろうか。
技術的な問題に注目しよう。あらゆる個性が重ね合わされたような語りとは何だろう。それはどのようにして書かれうるだろう。
 
たとえば多数の書き手が一文ずつ書き継いで一つの文章を構成するというのはどうか。これは意思が溶け合って個性が消えた神の視点による語りになりうるだろうか。
いや、そうはならない。書き手の個性が重ね合わされたとしても、語り手の個性はなお読み取られうる。読者はもちろん、書き手の側でも、それまでに書き継がれてきた文章の中に、語り手の姿を読み取ってしまうだろう。語り手の現出を止められる書き手はいない。
 

botに救いを求めるしかないのか。

すーぱーそに子の詩学

草稿

机の上に万年筆 のインクが載っている。ラベルにtsuki-yoと書かれており、それはおそらく月夜と当てるのが正しい。フタが開きっぱなしになっており、中でインクの 固化がはじまっている。インク瓶の隣にミュッシャの『月』が立て掛けられている。高さ30cm程度の額に収まる『月』の目線は優しげだ。その視線の先に A4サイズの紙がある。紙は『野生の蜜』を重しにして広がっている。風が部屋の中に入ってくるから、重しがないと飛んでいってしまうのだ。青黒い月夜のインクが、紙上でなにかを語っている。

掘り出された悲しみ。ディスプレイのうつろな反射。電源が入ったスピーカーが沈黙するホワイトノイズ。すべては机上にある。机上で繰り広げられている。

机から目を外すことが君にはできない。かわりにぼくが観よう。机を離れて、本棚をなめるように移動し(前日島、百年の孤独、エコー・メイカー、魔女狩り、 逆光《上》)、ベージュのカーペットを越えて、視線が靴をとらえる。窓の前にそろえられた一足の靴。小さな靴。赤い、ヒールのついた靴。

8月の昼下がり、腐臭が漂ってくる。その冷ややかな熱のために、地表から君がいる4階までまで漂ってくる。それはすーぱーそに子詩学についての来るべき書物だ。

抽象絵画を観賞するとき

小説

抽象絵画を観賞するとき、そこに描かれているモチーフがなんなのかぼくにはわからない。にもかかわらず、その絵を観ていると快楽を感じることがある。"ある種の小説"を読んでいるときの感覚はこれに近い。

ある文章やある色彩の組み合わせを受容したときに、受容者の頭の中で不随意に展開される快楽がある。ぼくが知らないというだけで、こうした快楽が生成する論理が人間の頭の中にはある。"ある種の小説"は、言葉の意味の論理や物語の論理にしたがっているのではなく、こうした不随意の快楽の論理に従って書かれているのではないか。これは小説というよりも、むしろ詩や短歌などの韻文の快楽に通じる。こうした読み方を可能にするのは、物語や言葉から歴史を取り去ること。そして言葉の意味をぬぐい去り、再定義することだと考える。このようにして再定義された言葉を受け取ることは、抽象絵画で真新しい色や形の組み合わせを観たときのような驚きと興奮を読者に与える。

普通の物語は、読者がそれまでに知っている物語に支えられて成立している。それまでに知っている物語の差分で理解される。でも"ある種の小説"はそうじゃない。というのも、この小説にかかれている出来事が読者の現実の世界からあまりにかけ離れているからこう思うのだろう。たとえばSF は現実の科学や技術の延長線上に乗るようなアイデアが登場するけれど、"ある種の小説"はそうじゃない。ではファンタジーと呼べるかと考えると、それも違う気がする。なぜなら、ファンタジーの文脈と関係が薄いからだ。一般的なファンタジーは、ファンタジーが発明・発見した概念に支えられて成立している。だが"ある種の小説"は、ぼくが知っているどんなファンタジーとも関係が薄い気がする。

"ある種の小説"に書かれている言葉は、読者の現実の世界で使われている言葉と関係が薄い。言葉が独立しているとも言える。"ある種の小説"に書かれた言葉を読んだ瞬間、その言葉はなんのよりどころもなく、何にも支えられずに、荒唐無稽で観たこともない世界を構築する。これは、詩における言葉の用法だと思う。この独立した言葉によって、その言葉の意味が再定義されるのである。」

 

 

 

さあ、きみも"ある種の小説"に任意の幻想小説のタイトルを入れて読書感想文を完成させよう!

野崎まど『2』

 

2 (メディアワークス文庫)

2 (メディアワークス文庫)

 

読みました。面白かったです。

読むときはちゃんと[映]アムリタ (メディアワークス文庫)舞面真面とお面の女 (メディアワークス文庫)死なない生徒殺人事件―識別組子とさまよえる不死 (メディアワークス文庫)小説家の作り方 (メディアワークス文庫)パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫)を全部読んでから読みましょう。

 

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人間はなぜ創作するのか。この命題に対して『2』が語った理屈と、ぼくが思ったことをまとめておきます。

 

まず定義を出して、そこから話をはじめよう。

1. 創作とは、神に接近するためにおこなわれる

古来、芸術は神に捧げられるものだった。真に優れた芸術的パフォーマンスに対して、われわれは「神懸かっている」や「神が降りた」と表現してきた。商業的な目的を度外視したときに、「創作は神に接近するためにおこなわれる」という定義は、それほど的を外していないように思われる。

この神は、必ずしも宗教を意図していない。ふつう、人は自分の手に負えないものに関する責任の所在を神に求めたがる。古代、人知を越えた自然現象に対して、めいめいの神があてがわれ、信仰されてきた。同様に、創作されたものを受けて美しいだとか、面白いだとか感じる意味やメカニズムについて、人類はまだ答えを持っていない。だから、その遥かな延長線上に神を望んでいるのだと言って違和感はない。『2』の到達点にも神がいて、でもそれはどうやら到達点ではなかった。

また、この定義だけを考えると、創作されたものは神に捧げられることになるので、それを受容する人間がいなくても成立するように思われる。しかしこの神というのはめいめいの作者の内に抱えられているものなのであって、それは言うなれば仮想読者なのだから、この定義によってもやはり受容者がなければ創作は成立しないように思われる。

 

次にもう1つ、創作の目的についての理屈が出てくる。

2. 創作とは、人の心を動かすためにおこなわれる

この定義は、われわれの直感に最も親しみやすいように思われる。

最原最早は「全ての創作は人の心を動かすためにある」と言い、また同じ口で「愛とは、人と関係したいと思う欲求」だと言う。だから彼女は、創作とは愛であると断じる。

 

あとは、目的とは逆方向の理屈が出てくる。

3. 創作とは、人類が適者生存の過程で獲得した行動である

目的というのは人間の精神から生まれるものであって、これは人間の社会的な面を反映している。これに対してこの定義は、人間の動物的な面を反映している。

人間の行動をミームで捉えたときに自ずと生じる考えだが、『2』ではこれがうまくクライマックスを補強している。

ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』

小説
神は死んだ (エクス・リブリス)

神は死んだ (エクス・リブリス)

 

 

ここ最近読んだSF小説で一番面白かったです。

藤井光の訳書にいまのところはずれなし。