鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』

子供たち怒る怒る怒る (新潮文庫)

子供たち怒る怒る怒る (新潮文庫)


佐藤友哉の短編集。1000の小説とバックベアードを読んだ時には筆者の純文学フィールドでの仕事を自分は楽しめないと思っていたけれどそれは大きな間違いで、デンデラの高評価が気になってためしに手に取った本書についてはページをめくる手が最後まで止まらなかった。本書は6つの作品からなる作品集で、これらは表題作とそれを補強する五つの物語群として緻密に構成されているように思う。一つずつ考察していこう。以下ネタバレ注意。

大洪水と小さな家

三人の兄妹たちは自分たちを《外部》から完璧に隔離された存在として認識しており、この《外部》には学校の友人も担任の先生もそして自分たちの父親母親までもが含まれている。つまり三兄妹はこの世界を、自分たち三人だけで自己完結したものとして捉えている。《外部》は全て敵であり、自分たち三人の共同体だけが唯一の安息。世界には自分たち三人しか存在しておらず、自分たち三人こそが世界そのものだと認識しようとしているのだ。そしてその特殊すぎる志向を、彼らは表面化させないようにしている。普通の家庭にいる仲のよい兄弟を演じて生きている。なんと歪んだ日常だろう。そして妹の死によってこの共同体は、さらなる強固な自己完結へ向かって解体される。語り手である兄は妹の水死体を発見した瞬間に悟る。究極の自己完結とは、やはり自分一人に対して発現するものなのだ。
さて、ここで語られている自己完結とはいったい何なのか。その実質的な意味はおそらく、《外部》からの影響を完全に遮断するという点にあるのだろう。外部からの影響とはそもそも外部と自分との間の摩擦、もっと別の表現で言えば外部と自分との違いを平均化しようとする作用なのではないだろうか。他人と自分とは違うからそこに摩擦が生じ、それによって自分が社会にならされていく。熱力学的にいえばそれは平衡状態への道程だ。これは僕らの日常からするとごく当たり前の作用で、これを避けていては社会生活は営めない。だがこの物語の三兄妹は、それを徹底的に排除しようと奮闘するのである。なんと無駄で、かつ有意義な努力だろうか。
僕が思うにこの物語の本質は、こういった《外部》からの作用を否定するところに置かれているのではない。むしろこの物語は、そういった作用に慣れきってしまって自分の考えなしに惰性で精神的平衡状態へと向かおうとすることに対する問題提起なのではないかと思う。

死体と、

主人公は9歳で死んだ女の子の死体。この死体はまるでリレーのバトンのようにさまざまな人間のもとをわたり、死体を手にした人間たちはそれぞれの無残な物語を濃密に展開していく。この物語において特に眼を引かれたのは、少女の死体の完璧な受動性である。生まれた瞬間から重い病に冒されていた彼女は9歳で死ぬその瞬間まで病気や両親の影響下に生き、そして死体となってからも為されるがままに状況に振り回される。その一方で死体である彼女を取り巻く人々には、そのひとりひとりに濃密な物語が用意されていて、少女の完璧な受動性との対比は、一層強くなっている。無力な少女が巨大な《外部》からの作用に晒され続けるという救いのない構造が非常に印象深い。

慾望

平凡な四人の高校生がある日教室でサブマシンガンを乱射、級友と担任教師を人質とし、駆けつけた警官・機動隊をライフルで狙い打ちにするというとんでもない展開。その出来事の背景には果たしてどんなに強烈な動機があるのだろうか、と思って読んでみると実際何もないのである。彼らはなんとなく銃を持ち、なんとなく人を殺した。通常物語の根幹を成すべきである意味性が、見事に欠落している。
そんなモンスター然とした四人の子供たちを筆者はなんの意図をもって書いたのかと考えてみると、それは人質として生き残った担任教師と彼らとの対話を読めばわかるだろう。次々と殺されていく人質たちの中で、教師は生徒たちを説得するために自らの土俵に4人のモンスターを立たせようと奮闘する。動機があるはずだ、意志がなければこんな大それた行動は起こせないだろう、意志があるからにはそれを生みだした何らかの意味もあるはずだ、と教師は必死に呼びかける。しかしモンスターたちはあくまで怪物であって。本当に動機も意味も全く持っていなかった。物語は教師の敗北と絶望の中で幕を閉じる。
四人の生徒たちは担任教師とは違う生き物なのだと、結局この物語は述べている。絶対に分かり合えない関係も存在するのだ。これは『大洪水と小さな家』における《外部》と三兄妹との関係と相似だ。そう、視点を入れ替えるのだ。教師からではなく四人の生徒たちから見れば、モンスターとは他ならぬ担任教師のことなのである。物事の意味を疑いもなく信仰している社会が、彼ら四人にとっての《外部》なのである。この物語は、絶対に分かり合えない《外部》と自らの関係性について語っているものであろう。

子供たち怒る怒る怒る

これまでの三篇は、この本編を補強する役割を負っているように思える。この物語の主人公と級友の柴田はそれぞれのっぴきならない問題を抱えている。それらの問題に共通するのは、彼ら自身とはまったく関係のない理由で周囲から理不尽に弾圧されているという点だ。彼らが弾圧される背景には、両親に責任があったり、また彼らを取り巻く社会に責任があったりする。つまり彼らは自分たちにはどうしたって手出しができない《外部》からの影響に苦しめられており、自然彼らは強い自己完結性で自らの心を武装するようになる。この状態は『大洪水と小さな家』における三兄妹の状態と似ている。子供たちは、彼ら自身には関知できないところから、不条理な責任が押し付けられているのだ。これは『死体と、』の主人公である少女の死体の立ち位置と同じで、彼らは強烈な受動性の中に生きていることになる。しかし最後まで受動体であり続けた『死体と、』と異なり、この物語の主人公たちはある時点において受動性を放棄する。それをさせたのが《牛男》である。牛男は連続殺人鬼で、この物語においては力の象徴として振舞っているように思われる。その牛男を自在に操れることを知った級友の町井は主人公と協力し、牛男を使って世界を変えることを決意する。無力な子供たちは力を手にし、不条理に押し付けられる責任を破壊しようとするのだ。物語はそこで幕を閉じる。
牛男の立ち位置は絶妙である。はじめ恐怖の対象、すなわち悪でしかなかったこの連続殺人鬼は、物語終盤においては一転して主人公たちにとってもっとも身近な存在、善の象徴となるのだ。善と悪の境界上を牛男は駆け抜ける。そして理不尽に弾圧され不条理な責任を押し付けられていた子供たちは牛男という触媒を得て、ついに自らの立場を逆転させる。子供たちは、自分たちに責任を押し付ける社会、すなわち《外部》を、自分たちとは絶対に分かり合えない存在として明確に位置づける。これは『慾望』に登場した四人のモンスターと担任教師との関係に相似している。絶対に分かり合えない関係性である。ゆえに子供たちは怒って怒って怒り、牛男という道具を用いて行動を起こすのだ。『慾望』と異なる点は明白である。『慾望』の担任教師は絶対に分かり合えない関係性を理解することをついに放棄したが、こちらの子供たちはその関係性で結ばれた相手を徹底的に破壊して自分たちとの同一化を計ろうとしている。彼らは諦めてはいないのだ。二つの物語の違いはここにある。
最後に登場した神戸の美しい町並みは、彼らにとっての《外部》に他ならない。彼らはその《外部》を完膚なきまでに破壊し、更地にすることを誓う。これは『大洪水と小さな家』のところで述べた自分と《外部》とを平衡状態に持っていくための作用に他ならず、彼らは自分たちが《外部》に合わせるのではなく《外部》を自分たちと同じ更地にしてしまうことによってそれを為そうとしているのだ。内容に反して読後感は非常に爽快である。

生まれてきてくれてありがとう!

前半三作は表題作のはじめの部分に対応しており、自分たちにはどうすることもできない絶望的な状況と対応している。一方で表題作の後に続く後半二作は、表題作の結末部分と対応しており、そんな絶望的な状況を何とか打破しようと言うバイタリティにあふれている。それは『子供たち怒る怒る怒る』で繰り返し使われていた《毒》という単語の、この物語の中での使われ方を見れば明らかである。

リカちゃん人間

主人公のリカちゃんは両親、クラスメイト、あらゆる《外部》から理不尽な暴力を受ける。その暴力には意味性が欠如しており、彼女はその不条理さを、自らが《人形》のように無感情となることで乗り切る。この《人形》の状態は『死体と、』における少女の死体と対応している。
しかしリカちゃんは受動体のままでは終わらず、最後には自分をいじめてきた全ての人間の殺害という強烈なカウンターをお見舞いする。この不条理な暴力へのカウンターは『子供たち怒る怒る怒る』における神戸の町並みの徹底的破壊と対応している。
タクシーに乗り込んだリカちゃんの行き先には《外部》との平衡状態が待っているのか。それともさらなる《絶対に分かり合えない外部》が待ち受けているのか。僕には判断ができない。




《外部》としてのこの物語と僕とがたとえ絶対に分かり合えないのだとしても、僕はそれを徹底的に曲解することによって自分と《外部》との平衡状態を作ることができる。それが物語から求められていないことだとしても、そんなのは僕の勝手なのだ。