鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

人間の意識と選択の余地

以前書いた記事「人間の意識と慣れ」で、ある環境に対する人間の意識は、その環境に慣れるにしたがって徐々に薄らいでいくと述べた。例えば生まれて初めて泳ぎを教わるとき、僕らは腕を回す周期とバタ足の周期とを、教わったタイミングで持続させられるように意識し、また手のひらを水が良く掻けるような形で維持するように意識したりしながら泳ぐ。しかし泳ぎを練習していくにつれて、そんなことをいちいち意識しなくても、基本的なことは自然とできるようになっているというわけである。無意識とは、慣習化によって生み出されるわけだ。
では、そもそも《慣れ》とはなんだろう。慣れが無意識を生み出すのであれば、その慣れは何から生まれてくるのだろうか。
僕が思うに《慣れ》とは、何を選ぶべきか迷う余地のない選択を言い換えたものではないだろうか。先の例で言えば、掻き手とバタ足の周期についていちいち迷う必要がなくなった状態が、泳ぎになれた状態と言い換えることが出来る。要するに、迷うことを放棄した状態が《慣れ》であり、この選択を放棄した状態が、そのまま無意識と言い換えることが出来るわけだ。人間の意識の本質とは、《迷い》なのである。
こう考えると、人間以外の動物がはたして意識を持っているのか、怪しくなってくる。意識がない状態とは、感情の起伏やその他の精神活動がない状態とはまったく違うのだ。常に生存のための最適な選択を行う野生の動物たちは、はたして《迷い》のような、生存に直接の危険を伴う現象を選択するだろうか。そこに選択の余地はあるのだろうか。彼らが捕食者に睨まれた状況を考えてみれば、意識を働かせるような暇なんてどこにもないように思える。ぐずぐず迷っているような暇があれば、さっさと逃げ出すに決まっている。そこに選択の余地はないのではないか。
あるいは意識とは、人間という種が進化の途上で獲得した、一つの特色なのかもしれない。