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鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

円城塔あるいは構造を描き出すための小説機関

小説

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)


物語に基づかない小説は、具象に基づかない絵画と立ち位置がよく似ている。
前回のエントリを書きながら、ふとこんなことを思った。ここで言う「具象に基づかない絵画」とはカンディンスキーの描く抽象絵画のことを指していて、「物語に基づかない小説」というのはもちろん、今回取り上げることになる円城塔の小説を指している。ひとまずここでは、主題として取り上げる円城塔の小説と、例として取り上げるライトノベルと現代小説との関係性、そしてそれらと対比する形で紹介する抽象絵画の例について書いておく。

§ 絵画と小説、具象と物語

一般に絵画とは、具象を平面に描くことによって成立する芸術であって、これに対して小説とは、物語を文章として書くことによって表現されるものだ。両者において「具象」と「物語」は同等の役割を果たている。つまり「具象」と「物語」は、絵画と小説という二つの媒体の基底をなすものであり、絵画作品と小説作品それぞれの成り立ちにおいて、これらに先行する概念は本来存在しないのである。これが世間一般での話。じゃあ一般じゃない話とはなんなのかというと、ここで冒頭の言葉が出てくる。「具象に基づかない絵画」と「物語に基づかない小説」である。まずは「具象に基づかない絵画」について見てみよう。

これはいわずもがな、カンディンスキーに代表されるような抽象絵画を指す言葉だ。これは現実に見られるような具象を放棄し、一見して意味をなさないような抽象的なデザイン・モチーフなどを用いて描かれる絵画のことである。このような手法はそれまでの具象に基づく絵画とは一線を画していて、はじめこそ人々の目に奇異に映ったかもしれないが、現在ではその純粋な構造美に多くの人が心奪われ、絵画の世界において最も注目される分野のうちの一つとして数えられている。このようにして、もともと具象を描くものとして発達した絵画から、具象に基づかず、純粋な構造美を追求したものが生まれたというわけだ。抽象絵画は、(狭義の)「絵画」という表現媒体の枠から大きく足を踏み出した絵画であると言えそうだ。

さて、このように「具象に基づかない絵画」について説明してしまえば、あとはこれと対比することによって「物語に基づかない小説」についても説明できる。小説を絵画に、物語を具象に置き換えれば同様のことが言えるのである。このようなタイプの小説としてはいわゆるライトノベルと呼ばれるものがすでに広く知れわたっているので、これを例として少し説明することにしよう。

すでに多くの批評家によって指摘されつくしていることかもしれないが、ライトノベルの特徴は「キャラクタに基づいた小説」であるという一言に尽きる。書くべき物語がまずあるのではなく、書くべきキャラクタが物語に先行して存在している。まずキャラクタの存在があって、そこからそのキャラクタを動かすのに相応しい物語が構築されていくという順序で書かれているのだ。これは通常考えられる小説という媒体の表現の手法から、かなり逸脱したものであると言える。なにしろ小説とはもともと物語を書くものとして発達したものであって、その中においてキャラクタとは、物語によって要請されて初めて登場するものにすぎないからである。

本来、近代文学のうちの一ジャンルである小説は、たとえば純文学だとかミステリだとかSFだとか、そういういくつかの細かいジャンルにカテゴライズされているという状況がある。たとえばミステリを例に取ると、これは何らかの事件に起因する物語を取り扱う小説と定義付けることが出来るだろう。ミステリ小説においては、事件の真相の追求という要素が、いわば物語を語る上での道具として使われているのだ。同様にSF小説では、科学的知見/論理が物語の道具として消費されるという構図になる。基本的にこれらの小説は、一般の近代文学と同様、はじめに物語ありきで成り立っているのである。ここでは当然物語に登場するキャラクタたちも物語を語る上での道具として消費されており、これら従来の小説から見たとき、キャラクタを語るために物語を消費していくというライトノベルのあるべき姿は、はっきり言って、かなり異質に映ることだろう。しかしながら、現にライトノベルに分類される作品群は多くの需要に支えられており、本来の物語に基づく小説とは異なる形態で、しっかりと成り立っているのである。このようにライトノベルは、絵画における抽象画の立ち位置と同じように、(狭義の)「小説」という表現媒体の枠から大きくはみ出した小説であると言えるだろう。

ここまで「物語に基づかない小説」とはどのようなものであるのかをライトノベルを例にとって説明してきたが、次からはいよいよ円城塔の小説へ移ることにしよう。

§ 構造に基づいた小説

一言でいってしまえば円城塔とは、「構造に基づいた小説」を書く作家である。ライトノベルが物語ではなくキャラクタを基底として成り立っているのと同様に、彼の小説は物語ではなくて、何らかの数理的構造を基底として成り立っているのだ。彼の小説では、それぞれの作品がある特有の「構造」をもち、まさしくその「構造」を説明するために物語が消費されていくという節がある。
たとえば、短編集『Boy's Surface』収録の表題作においては、作品の根幹をなすレフラーとフランシーヌの初恋によって浮き彫りにされる僕らの認識と真理との間に横たわる壁(という構造)が、【何かが起こりうるのは、それが繰り返しの可能な構造を持っているからであり、実際に繰り返されているからである】とする(ポワンカレの)再帰定理をはじめとする理論構造だとか、また無尽蔵に己を複製してゆく「レフラー球」なる一種の数学的構造が語る物語を通すことで描かれている。

「Boy's Surface」と「Your Heads Only」を構想する上で作家自らがつくったプロットが、Anima Solarisに掲載中のインタビューにとりあげられているので、以下に引用させていただく。

"Boy's Surface"
"Your Heads Only"

これを見れば、彼の小説が物語ではなく構造に基づいているということを、直観的にわかっていただけるだろう。これは彼の小説が、物語という道具によって構造を描くという手法によって書かれていることを明確に示唆している。特に「Boy's Surface」という作品をつくるこの構造は、おそらくレフラー球という写像がつくるトルネド構造の単純なモデルとなっており、これは無限に出会い続けることと無限にすれ違い続けることとをストレートに読者に想起させる。ここには、いかにも名状しがたく、また理詰めでは分析しがたい抒情性が満ち溢れている。この作家が持つ文学性は、おそらくこういった部分にこそ存在しているのだろう。

§ 「構造に基づく小説」の手法

円城塔の作品全体に言えることとして、ちいさな断章を多く使うという点がある。『Boy's Surface』では、すべての短編がほぼ同じ分量のいくつかの断章によって構成されているし、長編『Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)』に至っては、多数の短編の集合体とみられてもおかしくないほどに作品全体が断章によって縦割りされている。このような傾向は、作者がいくつかの断章(物語)を組み合わせて一つの作品を構成するという手法を取っていることを意味しているのではないだろうか。彼の作品がなんらかの数理的構造に基づいて作られているということを思い出せば、このような手法が積極的に取られているということにも納得できる。たとえば衣服を仕立てる時を考えても、一張羅をこしらえるというのはなかなか骨の折れる仕事だろう。

また、彼の小説を一読したことのある人ならわかると思うけれど、円城塔が書く日本語はどこか独特に感じられる。たとえば以下に引用するのは、「Boy's Surface」収録の短編『Gernsback Intersection』の冒頭だ。

奇蹟からしか始められないものがあるのならば、奇蹟でしか終われないものがあっても構わない。最初から始まりっぱなしなので誰にも止めることはできなくて、こうしてただ続いていく。続き方にも色々あって、続き方さえ続いていく。

また、以下は『Self-reference ENGINE』からの引用。

この見解へ一等最初にたどり着いたのは、残念ながら僕ではない。
記録には全く残っていないのだが、一人の老教授の最終講義が鯰文書の全貌を明かしたものとして残されていない。
お前は何を言っているのかと言われそうだが、事実の方がそうなのだから仕方がない。

読むたびに「おや?」と見返してしまうような、一見して意味が通らなかったりわかりにくかったりする文章が、いとも無造作に顔を出してくる。僕が思うに円城塔という作家は、自分が書く文章の「構造」に非常に自覚的なのではないだろうか。つまり彼は日本語の文法の形に自覚的なのであり、構造物としての文章が成り立つ範囲で、その文の要素をフレキシブルに代入するような形で、文章を書いているのではないか。要するに、文の構造がまず先にあり、そこに言葉を代数学的に当てはめていくようなイメージだ。上の引用に見られる「記録には全く残っていないのだが、一人の老教授の最終講義が鯰文書の全貌を明かしたものとして残されていない」という箇所は特にこの傾向が顕著で、これ単体では一般的な文としての意味をなしていないとすら言えるだろう。しかしこれは、作中の文脈ではしっかりと意味をなしているのである。このような文章を書くためには、自分の文章の構造に対して極めて自覚的にならないければならないはずで、円城塔はこの点をよく心得ているからこそ、きちんと破たんしない文章を書けているのだろう。このようにして彼の日本語は、ひねくれた構造美を獲得するに至ったのだ。

ここに挙げた二つの例を見ればわかるとおり、「構造に基づいた小説」を書くために彼がとっている手法にもまた、構造性が顕著に表れていると言えるのではないだろうか。

§ 従来のSFと、構造に基づくSF

さきほど、「物語に基づく小説」としての従来のSF小説では、科学的な論理構造は物語の道具として消費されるものであると述べた。しかしこの説明だけではわかりにくいという声も上がるだろうから、どういった点で「物語に基づく」としているのか、具体的な話をしてもう少し詳しく見ていきたいと思う。

ここでは例としてグレッグ・イーガンの長編『順列都市』を取り上げよう。『順列都市』では、《塵理論》と呼ばれる理論構造が、物語全体を成立させるアイデアとして存在している。主人公のポール・ダラムが考え出したこの理論が、物語全体を駆動し、この理論抜きでは物語自体が成立しないとも言える。この《塵理論》は、それだけ理論構造として奥深く、また十分複雑であるがゆえに、その組み立てにはかなりの労力を要したことだろう。だから、おそらくイーガンはこの小説を書くにあたり、まず《塵理論》のアイデアを考案し、十分に熟成させてから物語を書くという順序をとったにちがいないのだ。

さて、もしかするとあなたは、ここで疑問を持つかもしれない。理論構造を先に考案して、それから物語を書いているということは、この『順列都市』も「構造に基づく小説」であると言えるのではないか。それなのに、どうして円城塔の小説が「構造に基づく小説」であると特筆しているのかと、こう思うかもしれない。

しかしこの文脈において、その疑問は少し見当違いであると、あえて言わせていただこう。『順列都市』も他の従来の小説と同様、「物語に基づく小説」なのである。

要するに、作家がその作品を作り上げた手順は、その作品自体の持つ性質とは関係しないということだ。これは小説に限った話ではないが、創作物とは、作者の手を離れた時点で作者とは関係ないところで独立するものである。その作品がどのように受け取られるのかということは、もはや作者の思惑の及ぶところではないのだ。『順列都市』に限らず、多くのSF小説は、まず科学的アイデアありきで作られているだろう。しかしその小説自体が準拠しているもの(=物語)は、それが作成された手順と関係なく存在しているのである。たとえば『順列都市』では、ポール・ダラムたちの物語を駆動するための装置として《塵理論》が使われている。作者によって使われているのではなく、物語によって使われているのである。つまりこの小説においては、《塵理論》という論理構造のアクロバットが、物語を盛り上げる役割を果たしているのだ。その一方で、「構造に基づく小説」としての円城塔の作品では、逆に物語のアクロバットが、理論構造を盛り上げるという役割を果たしている。つまりはそういうことだ。

このように考えると、円城塔の小説にしばしば見られる不条理さにも納得できる。なにしろ彼の物語は、「構造」を描く(盛り上げる)ために存在しているのだ。そのような要請で作られた物語に、僕らの現実認識との整合性を求めること自体間違っている。「構造」を表現するために自由自在に形を変える物語のアクロバットは、ある程度の不条理なしでは、必要なだけの柔軟性を得られないのである。

さて、これで従来のSFと構造に基づくSFとの違いについて、うまく説明できたんじゃないかと思う。ではこの節の締めくくりとして、『Self-reference ENGINE』の帯に書かれた神林長平の紹介文について触れよう。

円城塔は本書でもって、かのオイラーの等式を文芸で表現してやろうと企図したのではなかろうかと想像する。

このように神林長平はすでにこの時点から、円城塔が構造を描く作家であると指摘している。彼の解釈によれば、オイラーの等式という数理的構造を描くための物語群として、『Self-reference ENGINE』という作品は成り立っているのである。その構造美を愛でることができる人間にとって、この小説は、オイラーの等式ほどは美しくないのかもしれないが、それに勝るとも劣らず面白い作品としてその目に映ることだろう。

§ 構造を描き出す小説機関

前作『Boy's Surface』は恋愛小説集として発表されたが、これはさほど驚くべきことではない。そもそも円城塔が書いているのは従来のSF小説ではなく、「構造に基づいた小説」としてのSF小説なのだ。その枠組みの中では、たとえば純文学をやろうがミステリをやろうが、全く問題にはならないだろう。従来の小説が「物語に基づいた小説」として純文やミステリやSFなどのさまざまなジャンルを抱えているように、ライトノベルは「キャラクタに基づいた小説」として、同様にミステリやSFなどのジャンルを抱えている。「構造に基づいた小説」が同じようにさまざまなジャンルを抱えてたとしても、それは何ら驚くべきことではないだろう。

円城塔の作品においては、人間以外の語り手によって物語が綴られるという事態がしばしばおこる。それは何らかのアルゴリズムであったり、無限に複製を続ける写像であったりと、枚挙にいとまがない。あるいは円城塔という作家はある種の数理的論理構造を表現するための小説機関として存在しようとしているのではなかろうか、なんて考えたくなってくるくらいだ。
そんな彼が描き出すひねくれかえった構造美は、不思議なくらいに魅力的で、かつ不可解なほど抒情性に充ち溢れている。なぜ物語から離れた純粋な構造としての円城塔の小説に対して、我々はこれほどの魅力を感じることができるのだろう? 彼の小説は、どうしてここまで文学的になれるのだろう?
答えはきっと、彼の描き出すねじくれかえった構造美の迷宮の中にある。それは円城塔にしか書けない、最上の “構造小説” なのである。