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鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

§ 碇シンジはどこへ行くのか?
最近新装された「走れメロス・おしゃれ童子 ヤング・スタンダード (集英社文庫)」の表紙のメロスはちょっといくらなんでも走り過ぎだよなあとか思っていたんだけど、なんてことはない、本作でシトを受け止めに走る初号機と比べれば、あんなものは全然走っているうちに入っていなかった。あのときの初号機は、なんていうか、とにかく真っ当に走っていた。どっからどう見ても、あれはまるっきりヒーローの走りじゃないか。だからあのシーンを見て、僕はなんとなく、碇シンジは今まさにヒーローになろうとしているんだと思った。
「走る」と言う行為は、人をカッコよく見せるために一番重要な演出の一つで、たとえば「ボーン・アイデンティティー [DVD]」のジェイソン・ボーンなんかは、ホント気持ちいいくらいにカッコよく走ってくれる。いかにカッコよく走りを魅せられるかというのは演出家にとってすごく重要な仕事だし、実際カッコよく走っているヒーローに僕らは等しく心を躍らせる。それよりちょっと前に「M:i:III [DVD]」という映画があって、僕はこの映画が正直あまり好きではなかったんだけど、その中でたった一つだけ最高に興奮したシーンがあって、それが主人公イーサン・ホークが上海の古い街並みをひたすら全力疾走する場面だった。この走りには本当にシビれた。この映画自体は好きじゃないけれど、あの走りには確かにものすごい力があったし、それは今でも僕の心をつかんで離さない。
そして初号機だ。あのときの碇シンジの走りには、本当にシビれた。それはたしかにヒーローのために演出された「走り」だった。あのシーンが観られただけで、僕は映画館に支払った分を全部取り戻すことができたんだとすら思った。それから、こうも思った。このシンジは、もう我々の知っている碇シンジじゃない。
ゲンドウに「大人になれ」と言われて「僕には、何が大人かわかりません」と答えた彼は、《大人》というものに対してひどく失望していた。この時点ですでに物語も、いろいろな物事がみんなグチャグチャになってしまっていて、彼に限らず劇中の人物たちの誰もが、にっちもさっちもいかない状態になっていた。
旧作だとこのままウジウジとまた悩み続けることになるんだけど、そうはさせまいとここに登場するのが、真希波・マリ・イラストリアスだ。彼女によって、物語は大きく変わっていく。身動きの取れなくなった物語に巨大な突破口を開けて、マリはデウス・エクス・マキナ(→マキナミ)としての役割を果たす。旧作だと加持リョウジがシンジの背中を押すところだけど、やっぱり《大人》である加持に背中を押されたってシンジは結局最後までは素直に前へ進めないんだろうし、それでは先ほどのあまりにヒーロー然とした「走り」が台無しになってしまう。だからここで《子供》であるマリが加持の代わりを務めることは、彼らにとっては偶然の出来事だったとしても、作品にとってはひどく必然的なことだった。こうしてシンジは初めてヒーローになったのだ。だって、目一杯手を伸ばして「来い!」と叫ぶ彼の姿は、まんまロボットアニメの、エヴァ以前のヒーローそのものじゃないか。
こうしてシンジは新境地を見つけた。作品は原点へ回帰した。そして僕らは置いていかれた。
最後にレイを抱きながら「これでいいんだ」と呟くシンジだけど、このセリフは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。彼はようやく本来の姿を見つけて、これが答えなんだと自分に言い聞かせる。これでいいんだ。
しかし、本当にそうだろうか。違うだろう。ロボットアニメのヒーローは、結局はただのヒーローだ。所詮は《子供》の憧れでしかないし、子供の憧憬にすがったところで《大人》にはなれない。そんなことで、《大人》を乗り越えていくことがどうしてできるんだろう? だから、このシンジの姿が作品の解答として提出されるということはまずありえない。やっぱりゼロ年代のヱヴァなんだから、「エヴァ以前」や「エヴァ」とは違う解答を期待するべきだ。あの初号機の「走り」にはたしかに最高にシビれたけど、僕らはあのカッコよさに、やっぱり見切りをつけなくちゃいけない。少なくともこの作品は、これからそういう方向に進んでいくはずなんだ。
「破」に至って、碇シンジはようやくスタートラインに立つことができた。結局はそういうことなんだと思っている。


§ なにが真希波・マリ・イラストリアスを要請したか
マリはとても現代風な娘だ。外見もそうだし、なにより決断主義的なところがある。冒頭で「すごく痛い、けど、楽しいから、いい」と叫びながら闘う彼女には、「エヴァ」的な迷いや悩みの欠片も見当たらないし、何もかもはじめからすでに決まっているみたいな不敵さがある。だから要するに彼女は、すごくゼロ年代っぽい女の子だ。
「破」における旧作からの改変で一番大きかったのは、やはりマリの追加と、アスカの設定変更だろう。たしかに他のキャラクタたちも旧作からはだいぶ変わった行動を取り始めているけど、それらの元を辿っていけば、きっとこの二人に行き着くんだと思っている。たとえばシンジがあんなに熱血になったのは、アスカのことがあって、その上でマリに背中を押されたからだ。アスカがああなったのは彼女自身の設定が変わってあんなあらかさまな死亡フラグを立てちゃったからだし(違)、マリにははじめから機械仕掛けの神としての役割が与えられている。だからこの「破」については、この二人がもたらす変化が、そのまま作品の旧作からの変化ということになるんじゃなかろうか。
ゼロ年代を代表する真希波と、'90年代最後の変化を体現した(であろう)式波とを物語の中に取り込んで、新劇場版は目下現代の先、すなわち'10年代の物語として生まれ変わりつつある。