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鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

舞城王太郎あるいは小説のための小説のための小説家

小説

だいぶ前に書いた文章をサルベージしたので掲載します。

ゼロ年代を代表する作家として知られる覆面作家舞城王太郎。小説のために小説を書く作家というものがあるのだとすれば、彼は現在、その中で最も意識的な書き手のうちの一人である。ここでさっそく『暗闇の中で子供』の一節を引用したい。

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。
本物の作家にはこれは自明のはずだ。ドストエフスキートルストイトーマス・マンプルーストみたいな大長編を書く人間だってチェーホフやカーヴァーやチーヴァーみたいなほとんど短編しか書かない人間だって、あるいはカフカみたいなまともに作品を仕上げたことのない人間だって、本物の作家ならみんなこれを知っている。ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。(中略)むしろだからこそ、こう考えるべきなのだろう。逆なのだと。作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。

嘘=フィクションというものに関して非常に自覚的に小説を書いているのが舞城王太郎だ。ミステリ・SF・純文学などのジャンルも、それがフィクションであるという一点においては凡そ区別がつかない。だから彼は、そのレベルにあって小説を書き続けている。そういった内容的な区分、また短編・長編などの形式的な区分、さらには小説好きなのか漫画好きなのか映画好きなのか、大衆相手なのかハイカルチャー相手なのかなど、あらゆる区別を俯瞰・超越しながら、彼は小説という言語表現のフィールドで踊り続けている。彼は「小説」のための小説を書いている。さらに言えば、『「小説」のための小説』のために小説を書いている。それゆえに舞城が書く小説にはメタ視点があふれているし、文体が特徴的になっているし、ガジェットの引用が過剰なのだ。そう、これらの特徴には、すべてに一本のつながりがある。
そしてこのつながりをみていくために、本論はある。

「小説」のための小説

小説には二種類しかない。「小説」を目的とした小説と、それ以外を目的とした小説。この二つだ。

前者で言うところの『小説』とは、すなわち文学(=言語表現による芸術作品)の一形式としての小説そのものを指している。詩作やエッセイに対する小説、そして絵画や映画に対する小説、そういうわけだ。また一方で、後者の言う「それ以外」の目的には、たとえば「物語」だとか「啓蒙」、または「トリック」や「科学的知見」などが当てはまるだろう。つまりここではまず、巷のあまねく小説を、『小説』という表現形態そのものに寄与するものと、そうでないものとに分けて考えてみようというわけである。前者の小説を、以後、「小説のための小説」と呼んでいくことにする。

ただし「小説のための小説」などと大仰に言ってしまったけれども、そこには決して芸術分野としての「小説」を発展させてやろうだなんて崇高な目的はなくて、「小説とは何だろう」とか「小説で何ができるんだろう」とか考える人間であれば誰にだって書く可能性のあるものだということである。

自明のとおり、小説は言葉をしか持たない。絵画は視覚を持ち、映画は視覚と聴覚、そして言葉とを持っている。だが小説にはたった一つ、言葉しかないのだ。必然、表現の幅は狭まって行くように思われる。にも関わらず、なぜ小説はこの現代においても脈々と生きながらえてきたのだろうか。それはきっと、むしろ小説が言葉をしか持たなかったからであろう。言葉をしか持たなかったからこそ行き詰まり、模索が始まり、ブレイクスルーが為され、そうやって小説はいままで続いてきたのだ。それに寄与するのが「小説のための小説」なのである。

「集客力」について

舞城王太郎の作品には、おしなべて強力な(偏った)「集客力」がある。つまりは客引きの力だ。なんのための客引きか。むろん「小説」のためである。そのひとつの論拠として、舞城王太郎の作品に一貫して見られる特徴的な文体がある。

彼の文体を特徴づけているものはいったい何かというと、それは端的に言うならば、「かったるさ」の徹底的な排除にある。彼の小説からは凡そ風景描写や客観的考察などと呼ばれるものの一切が見受けられず、すべては主人公の一人称による一方的な独白・内省(合わせて内白とでも呼ぶべきか)によってなりたっているのである。これにより舞城王太郎は、読むことの「かったるさ」をできるかぎり排除し、俗に言われる「ドライブ感」を獲得するにいたった。

ではそもそも、なぜ「ドライブ感」が選択されたのだろうか。そこには必ず戦略的な動機が潜んでいるはずだ。じつはこの理由に、舞城の作家としてのあり方が集約されているのだと考える。

彼の小説の文体は少々偏った意味でフレンドリーだ。ふだん小説を読まない読者層、たとえばテレビドラマや漫画や映画を愛する人間だとか、サブカルチャーを愛好する層などに向けて、彼の作品はあるのではないか。そういった意味で、彼の小説は「集客力」にあふれている。

風景描写や客観的考察を排除しようとすれば、当然表現の幅は狭くなるだろう。また一人称による語り・内省だけで地の文を構成するとなればワンパターンに陥りやすいことは目に見えている。そうしたリスクの中で、しかし舞城はデビュー以来一貫してそのスタイルを貫いている。そしてその狙いというのが、「かったるさ」の排除による(そのままでは文学に興味を持たないであろう)読者層の開拓なのではないか。彼の文体の「ドライブ感」は、「集客力」を獲得するために必然的に選択された手段だったのだ。

文体の話に限らず、舞城作品が強い「集客力」を持つという事実は、彼の作品に「引用」があふれているということからも窺える。たとえば『煙か土か食い物』においては、すぐ確認できるものだけでもこれだけの引用が見られる。

その他、音楽や映画に関する引用も数多くみられる。特に奈津川サーガや『九十九十九』、『ディスコ探偵水曜日』などには、ミステリからのガジェットが数多く使われている。上に引用したもの以外の作品でも、刺激的なミステリ的ガジェット(密室や見立て、過度な嗜虐性、無茶なトリック)が多くみられている。このようにして舞城は、他人のガジェットを再構築して小説を書いているようにも見受けられる。そしてそれらのガジェットの引用について、彼は開けっぴろげにネタ元を晒していくのだ(ふつうの作家はわかりやすい引用を避ける傾向にある)。この引用の「わかりやすさ」は、彼の作品すべてに通底しているものだ。

このようにわかりやすいガジェットの借用がなにをもたらすのかというと、これは間違いなく「集客力」に寄与している。強力なガジェットによって構成された物語はエンターテイメント性に富む。また、ミステリなどジャンル小説の読者や、サブカルチャー方面の読者層を取り込むことにもつながる。現に村上春樹レイモンド・カーヴァーレイモンド・チャンドラーなどをわかりやすく引用することで「村上春樹チルドレン」と呼ばれるようになってからというもの、そちら方面の客層をも取り込むようになったのではなかったか。

文体のフレンドリーさと引用のわかりやすさ。そしてこれらの要素によって作り上げられた舞城作品の偏った「集客力」。それが何をもたらすのかについて、次節で見ていく。

「小説のための小説」のための小説

「小説のための小説」と「集客力」という道具を得たところで本題に入ろう。ここで述べるのは、舞城作品の「集客力」が何をもたらすのかということだ。

これを見ていくために、ここでは二つの例を挙げる。ひとつは物語のコード(不文律)に対する舞城のスタンスについて。もうひとつは、ひとつの作品の中に複数の物語を包含するということについてである。

まず物語のコード(不文律)について。このコードというのはすなわち、物語を読む上での約束事のことである。俗に言う「死亡フラグ」だとか、その他の確立された演出やそうした手法はすべてコードだ。小説のコード、映画のコード、ドラマのコード、演劇のコードなど、あらゆる物語にはコードが満ち溢れている。例えばアクション映画において登場人物が銃撃されて出血するという演出があったとしよう。ここでその赤い液体が血であると認識できたのは映画のコードを知っているからであり、そうでなければそれは血糊であるとしか認識できないはずである。

世の中にある小説のほとんどはコード通りに書かれている。これは小説に限った話ではなく、一般のテレビドラマなどはそのすべてがコードによって構成されていると言ってしまって差し支えないだろう。わかっていてそれを受容するのであれば問題ないのだが、それがわからない客層というのも確かに存在しているのではないだろうか。舞城の書く小説がもつ「集客力」は、そうした客層をも取り込む。そしてその小説は、彼らに「物語のコード」というものの存在を知らせるのだ。

以下は『好き好き大好き超愛してる。』からの引用だ。

慶喜君は中二の夏くらいから、学校の友達は「友達」としてメタ化されてて俺のこと救えない、などと言いだして、よく学校をサボるようになっていた。単にうまく友達が作れないだけだ、と言って柿緒も賞太も三人の父親と母親も慶喜君を叱ったが、僕は慶喜君の言う「メタ化」された人間関係が既に出来上がっている状況で「本物の友達」を作ることの難しさ、あるいは不可能性について、何となくリアルに想像できて、一度慶喜君に「まあ友達なんて頑張って作んなくていいんだよ。友達なんてさ、基本的には作るもんじゃなくてできるもんなんだからさ」と言ったら慶喜君も僕の言うことがちょっとわかったらしくて、それ以来僕のことを、慕うとまではいかないけれどそんな感じで、前よりも親しく付き合うようになった。たぶん慶喜君の言う「メタ化された友達」と言うのは、相手と自分の間でお互いにとっての「友達」というものの役割が同一のものとして共有されていること、つまり「友達とはこういうもので、こういう場合にはこうするもの」という共通理解がされてしまっているということだろう。そのせいできっと。慶喜君は、同級生たちと一緒にいるときに、相手が(自分が)気持ちとしての友情からすべてをしているのか、「友達」としての役割を演じるためにそうしているのか、うまく判断がつかなくなっているんだろう。

「メタ化された友達」というのは、物語のコードを越えた、日常生活におけるコードである。この作品に限らず、舞城の作品にはしばしば、コードそのものがテーマとして現れている。

世の中にある小説のほとんどはコード通りに書かれている、と書いたが、それがコードであると他ならぬその小説の中で書いてしまう作家というのがいる。その最たる例がD・バーセルミ高橋源一郎、あるいは中原昌也なのであり、彼らの小説はまさに「小説のための小説」なのであった。
そして舞城の作品は、彼らの「小説のための小説」へと読者を導く役割を持ち得るのではないか。この意味で彼の作品は「小説のための小説」のための小説であると言えるのではないか。コードを作品の中でしばしば扱っているということから、それが推測される。

さて、次にもう一つの例に移ろう。これについて言いたいことはそう多くはない。ひとつの作品の中に多数の物語を包含することについてなのだが、その最たる例は言うまでもなく『九十九十九』である。

ポストモダニズムの文脈からメタ物語的な構造を用いることで、『九十九十九』は、「大きな物語」が死んだ世界に生きる我々の問題を見事に描き出している。逆にいうと、このような問題を扱うために『九十九十九』は、あの入れ子構造をとらざるをえなかった。ある題材を扱うために、複数の物語を消費していくというポストモダニズム文学の特徴が、ここには現れている。

さて、このように複数の物語を内包したこの作品が「小説のための小説」のための小説たる所以とは何か。そのことは、単に一度読んでみただけではっきりとわかるようになっている。いやむしろ、すぐにはっきりとわかることこそが重要だった。

なにかというと、あれほど複雑な入れ子構造を強調した作品であれば、読者はみな、まずはその構造に注目するだろうという点。『九十九十九』は、「ある題材を扱うために複数の物語を消費していくという現代文学のあり方」そのものを提示しているのではないか。それを読者にわかりやすく示すという役割を、この作品は負っていたのではなかったか。これは、『九十九十九』が「小説のための小説」のための小説であるとする、ひとつの証左だ。

九十九十九』に限らず舞城作品には、題材のために複数の物語を消費するという構造がわかりやすく書かれているものがいくつもある。『ディスコ探偵水曜日』や『暗闇の中で子供』、そして『好き好き大好き超愛してる。』もそのように読むことができるだろう。

「小説のための小説」へと誘導するための、『「小説のための小説」のための小説』。舞城作品の潔さがここにある。

結び

「文化のネオリベ化」とも言うべき現象を嘆く人間にとって、ゼロ年代はまさに受難の時代となったことだろう。サブカルチャーの隆盛に対して教養主義者たちが鳴らす警鐘は、しかしいつの時代においても消えたことはなかった。舞城王太郎の小説は、たしかにサブカルチャー的要素でもって構成されている。とはいえ彼の作品には、読者をメインカルチャーへと志向させる力がある。サブカルチャーの中にどっぷりと足を突っ込みながら、その外へとは言わないまでも、その境界線について読者に考えさせるための、確固たる戦略を持っているのだ。「大きな物語」を失い、行き場を見失った現代のメインカルチャーが、いったいこれからどこへ向かっていくのか。そのことについて真摯に考えるための機会を、舞城作品はわれわれに提供しているのである。

さて、このように舞城王太郎の作品について主に論じてきたわけだが、最後にこの作家について少しだけ触れておきたい。

以下に引用するのは『暗闇の中で子供』のTHREEでの一節、三郎=クラリスとレクター博士が湖の上で対峙する場面だ。あのトマス・ハリスの第四長篇『ハンニバル』のワンシーンを引用したものである。

「このガラスケースが気になるかい、クラリス?」
「気になると言うよりも、不思議に思っているのよドクター・レクター。その場所にどうやってあなたが含まれてしまったのかということについて」
「君にはこのガラスケースが、私を閉じ込めるためのものに見えるんだろうね、クラリス」
「でも、どうしてもそのようにしか見えないわ」
「いいかいクラリス。単純な視点の転換を君も試してみるのだ。私の位置と、君の位置とを実際に置き換える必要はない。必要なのは塑像力だ。大きさによる先入観を取り払ったより自由な想像力を用いるのだ。さてクラリス。君の周りに、君を取り囲むようにして地面に小さな円を描いたとき、その円は果たして本当に、君を内側に閉じ込めているのかい?それともその円は実際のところ、その外側に世界を閉じ込めているんじゃないのかな?そもそも球体の表面に存在する円に、内側も外側もあるのかな?」
ああなるほど。
同様に、空間の中に存在する密閉されたガラスの箱にも厳密な意味での内側とか外側とかはない。あのガラスの箱はポプキンス=レクターを閉じ込めているだけじゃなくて、同時に彼以外の、俺を含んだ世界全体もまた閉じ込めているんだ。

指摘するまでもなくこの引用部分は、脱構築という概念の単純なアナロジーとなっている。すなわち、文学=メインカルチャーの脱構築である。

サブカルチャーの側に立ちながらメインカルチャーを志向させ、それらの境界を意識させる作品を世に問い続けてきたのも、結局は文学を脱構築し、純文学とエンタメ小説・ジャンル小説との境界線を捉えなおしたいがためだったのはないか。そう、このために舞城は、「小説のための小説」のための小説家なのである。

ゼロ年代が終わりつつある今、きたるべき10年代において、宙づりになって久しいわれわれの「小説」はいったいどこへと向かっていくのか。いま「小説のための小説」のための小説家は、われわれをどこへ志向させようというのか。

舞城王太郎から、今後も目が離せない。