鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

神林長平『言壺』

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

言壺 (ハヤカワ文庫JA)


読書会のために書いたレジュメから一部掲載します。

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DISCUSSION

『言壺』について個人的に考えていることをまとめておきます.

言葉と精神

『言壺』にみられる「言語」に対する執拗なこだわりは,人間の精神と言語とが切っても切り離せないという点に端を発しています.以下に本文を引用しながら参照してみましょう.

そもそも『言壺』のSOW(sense of wonder)は,「言葉」が人間の精神に対して流入し,大きな影響を与えるという点にあると思います.このことは『私を生んだのは姉だった』の一文ではじまる「綺文」において,さっそく以下のように示唆されています.

おれが書きたいのは,そういうことじゃないんだ.姉と母親の遺伝子を混ぜ合わせたんじゃなく,言葉どおり,文字どおり,『私を生んだのは姉だった』という文章,そういう言語空間なんだ.異次元の言語世界なんだ.おれたちの通常の言語空間で理解しようとすると,こちらの言語空間が崩壊していくような,その気分にさせる,小説なんだ.ちゃんと読むことはできる,現実世界ともよく似ている,が,単語一つが異質なために,理解しようとすると,頭の中の言語中枢が役に立たなくなる,そういうものだ.

さらに,こうも書かれています.

そのつもりはなくても,言葉を連ねているうちに本当だと思えてくることもある.いや,常に,そうなんだ.言葉が現実を構築していくんだ.ルールに従って,だ.おれはそのルールそのものに干渉して,それを証明してやりたいんだ.おれの文を受け入れる人間は,現実がいかに危うく変化するものかを体験するだろう.(ワーカムが)再構築するか,狂うか,どっちかだとおまえは言ったな(中略)人間もだ.

つまり『私を生んだのは姉だった』という一文を読んだ瞬間,読者の意識,つまり人間が世界を認識する様式そのものが変わってしまうということを解良は示唆しています.これは突飛な空想であるようにも思えますが,実はそうでもありません.というのも,そもそも「言葉」と人間の「意識」というのは,鶏が先か卵が先かという関係にあって,どちらか一方がどちらか一方に従属するという形にはなっていないからです.このことは神林長平が長年書きつづけてきたことでもあります.人間の精神なくして言葉はなく,言葉なくして人間の精神は存在しえないのです.精神が言葉を形成するのと同じように,言葉も精神を形成するのです.

では,言葉が人間の精神を形成するというのはどういうことなのでしょうか.これについて理解するためには,本文中に繰り返し現れる「自走する言葉」のイメージをつかうのが良いでしょう.以下は「似負文」からの引用です.

シチュエーションを前段できちんと組み上げておく.そうして読者の頭の中に言葉で世界を構築する準備をさせる.言ってみれば設計図であり,骨組みであり,核になるものだ.

それから,一語を書く.それを読んだ途端,読者の頭で,用意されていた核を中心にして世界が自動的にでき上がってゆくのだ.先を読まなくても.だから,その一語の先は何もない.空白だ.しかし読み手はイメージが膨らんでゆくのを感じている.もはや言葉ではない.脳のイメージ駆動装置が,自身の意識とは独立して自走する……

ソシュールの記号論にならって書けば,「記号のシステムはその内的な論理に支配されている」ということです.言葉とは一種の記号であり,その記号の体系は,基本的にわたしたちの現実の出来事からは無関係に存在しているということを言っています.言語の使用が内なる論理によってのみ決められているということは,わたしたちにとっての「意味」は,言語の外の世界から独立したものと言えます.つまり,ある単語や言い回しは,「世界がどのようにあるか」ということとは無関係に,ほかの単語やフレーズとの関係からのみ,その意味を与えられるということになります.それぞれの言葉同士の関係によって作られるネットワークとして構成される言語空間,すなわち「言葉の総体」というのは,現実やわたしたちの精神の下に従属しているわけではない.だから言葉は自走するのです.わたしたちが認識する現実とはてんで無関係に存在するのです.そしてわたしたちは現実を表現するときに,この現実とは本質的に無関係である「言葉」を使用せざるを得ません.わたしたちは言葉を使っていると同時に,言葉によって支配されているとも言えるでしょう.

このように,わたしたちの認識が「言葉」による侵入を受け,「言葉」による支配を受けることによって生じる極端な事象の数々が,『言壺』のなかには書かれています.そしてこうした極端な事象は,つねにワーカムをはじめとした高度に発達した技術によって導かれています.だから,これが『言壺』のSFたる所以なのです.

個人的幻想と社会的幻想

『言壺』には,前節で述べたような,わたしたちの「精神」と,自律する「言葉」との対立という一つの軸がありました.しかし本書に見られる対立軸は実はもう1つあって,それは「個人的な幻想」と「社会的な幻想」との対立です.本節ではこれについて少しみていきましょう.

さて,以下の文章は「被援文」から引用したもので,ここにはワーカムがある仮想世界をつくりだしているのだと書かれています.

人間は言葉を持ったときから自然界とは切り離された仮想空間で生きる生物となったのだが,ワーカムの出現は,そこにまた新しい仮想空間を付け加える結果となった.世界がそれで変わったと感じるのは正しい.事実,変わったのだ.手書きで書いていると,それがよくわかる.こうしていると一時的にわたしは現実から,ワーカムの支配している仮想世界というそれから,逃れられている,と言う気がする.だが,完全ではない.ワーカムを使いたくて仕方がないのだ.

この仮想世界っていったいなんのことでしょうか.前節で見たような「言葉の世界」のことでしょうか.しかし「言葉の世界」は,ワーカムが登場するよりはるか昔から存在していたはずです.

ここで,ワーカムによってつくられる仮想世界のことを「社会的幻想」と名付けましょう.この「社会的幻想」について説明するために,本文から以下に引用するVRとニューロネットワークとの関係についての記述がとても役に立ちます.

いま思うと,VRがすたれたのはワーカムの出現があったからに違いない.ワーカムは,できの良くないVRが映像や音を人間の脳に入力するよりも,もっと強力かつ確実に人に仮想世界を与えることができる.個人的な幻想を,しかもニューロネットワークで社会的な幻想空間に違和感なく接続するのだ.VR技術がどんなにあのまま進化したところで,言語で仮想を構築するワーカムが生んでいるこの状態を実現するのは不可能だったに違いないのだ.

ここで言うVRとは,現実そっくりの仮想世界を人の脳に直接送り込むもので,だからその仮想現実は個人の頭の中にとどまっています.それに対して,ワーカムによってつくられる仮想世界というのは個人の幻想にとどまらず,社会全体への広がりを持っています.それは前節で見た,独立した「言葉の世界」を経由して社会全体に広がる幻想であり,わたしはこれを社会的幻想と呼んでいるわけです.

社会的幻想はなにもワーカムによってのみ作られるものではなく,現代のわたしたちの生活の中にもあって,それは本書でも例として出されていたけれど,例えば貨幣制度や,人間によって作られたその他の不文律などは全てこの社会的幻想に含まれるのだと思います.なにせそれは,現実世界に生きている人間以外の生物からすればまさしく幻想に過ぎないのですから.そしてワーカムの恐ろしさは,そうしたわたしたちが構築してきた社会的幻想に侵入し,変形し,破壊してしまう点にあります.そして,そうした危うさから人類を守るための管理社会が,まさしく「栽培文」で描かれていた世界だったというわけです.

わたしが思うに,ワーカムがつくりだした仮想世界というのは,わたしたちの頭の中にある個人的幻想と,わたしたちが共有している現実という社会的幻想とが混ざることによって構成された世界なのではないでしょうか.つまりワーカムは,個人的幻想と社会的幻想をうまく接続する装置であるというわけです.だから,ワーカムによって構成された「擬験」は,VRとは違います.それは社会的幻想であって,ゆえに擬験は外側に開いていて,実際に世界を変えてしまうものです.個人のなか(VR)にではなく,ニューロネットワークの関係性の中にわたしたちは強制的に参加させられて,現実と虚構の境目がどんどんあいまいになっていくわけです.それは「戯文」にみられたような,何が現実で何が虚構なのかがわからなくなっていくあの感覚です.

要約すると,言語空間は自然から切り離された閉鎖的な仮想空間だと考えられがちでしたが,『言壺』を読むとそうした考えは破壊されてしまいます.言語空間は社会的幻想として現実の世界に開放され,それはわたしたちの関係性のなかに共有されていた社会的な幻想を決定的に変質させてしまいます.だから『私を生んだのは姉だった』という一文は,わたしたちの従来の社会的幻想を死滅させんとして世に放たれたウイルスであり,言語兵器だったのです.円城塔の解説文ではないですが,わたしたちは備える必要があるでしょう.神林文から身を守るために.あるいは,神林文とともに人類へ宣戦を布告するために.


APPENDIX

ちょっとした疑問や思いつきをまとめておきます.

似負文

最後の言葉は何を意味していたんだろう.擬験.

没文

崇がときおり発していた意味不明な言葉はなんだったんだろう.サイメディックの話に出てきた「アクチャー」みたいなアレかな.

乱文

情報エントロピーについて.

言葉は,常にシステムのエントロピーを増大させる存在であるとい,ごく自然な現象を理解できたのだ,人はこの言葉を使って社会というシステムをまとめていく生物であったが,これは相当なエネルギーを費やしてエントロピーを小さくするということなのだが,その道具である言葉自体は常に窒尾を崩壊させる方向に作用するものなのだ,ある言葉を優位に使うにはそのようなエネルギーが必要なのは当然としても,言葉自体がすでに,常に自己をあいまいにしていく作用力を内包しており,仮に原書には一つの言葉しかなかったにせよ,誰もその言葉を使わないとしてもそれは次の瞬間には自己分裂を,自己のシステムのエントロピーを増大する方向へと進化を開始したに違いなく,

情報エントロピーは情報量によって簡単に定義され,
S = \sum_i P_i \log_2 P_i
と表すことができます(ただし[ex:P_i]は事象iのおこる確率).情報エントロピーとは「選択肢の豊富さ」を表す量で,情報エントロピーの増大は不確定さの増大に対応し,それは情報量が減ったことと同義になります,

ちなみにエントロピーとは名付けられていますが,もともとある熱力学的エントロピーとは全く別の概念です.にもかかわらず両者がエントロピーと呼ばれている理由は,2つのエントロピーが同じ形の数式で表現されるという,ただそれだけの理由によります.熱力学的エントロピーSは
S = k \ln W
と表され(ただしkはボルツマン定数,Wは系が取りうる状態の数),これは(1)式の情報エントロピーの定義式と同形です.このように,単に形が似通っているために同じ名前がついているだけなので,情報エントロピーと熱力学的エントロピーとを同一のものとして扱うことは一般にはできません.ただし,熱力学的エントロピーも人間によって認識される情報に他ならないので,熱力学的エントロピーを情報エントロピーとして表すことは可能でしょう.しかし,それでもなお情報エントロピーを熱力学的エントロピーとして表すことは一般にはできません.

碑文

それは樵の娘の森に建てられた碑なのか.あるいは解良による勝利宣言なのか.それとも「言葉」によって自律的に語られた言葉なのか.