読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

サルバドール・プラセンシア『紙の民』

小説

紙の民

紙の民

最初に創られることになったのが彼女であった。段ボールの両足、セロファンの盲腸、そして紙の乳房。男のあばら骨からではなく、紙のかけらから創られた。そこにいたのはピションとギホンの川を分かつ全能の神などではなく、二度にわたり引退した、切り傷だらけの指を持つ老人であった。 ―― 本書プロローグより

彼によれば、それは自由意思のための戦い、悲しみの商品化に抵抗する戦いだった。「俺たちにもう用意された運命に対する戦争なんだ」と彼は言った。
俺たちの運命を決めてるってのは誰なんだ,と俺は訊いた。フェデリコ・デ・ラ・フェは首を振って,はっきりとはわからないと言った。彼に言えるのは,それは空にいる何かか誰かで,姿を隠して,土星の軌道からのうのうと俺たちを見下ろしているということだった。 ―― 本書pp.58-59より

メキシコから国境を越えてカリフォルニアの町エルモンテにやってきた父と娘の頭上には、登場人物たちを上空から見下ろす作者=《土星》の眼があった。紙で創られた女の子からはじまる、奇抜で繊細な物語。

だいぶ前に読んですごく楽しんだのですが、そう言えば紹介してなかったなと思ったので、このまえ書いたレジュメから一部を以下に抜粋します。

                                                                                                                                                            • -

土星戦争について

本書の奇抜さというのは、この本の作者=《土星》とこの本の登場人物たちがまさにこの本のページの上で抗争を繰り広げるという、いささか倒錯的な物語の構造に由来する。そしてその倒錯した物語が、ユニークな登場人物たちと《土星》とによって同時多発的に、多声的*1に語られるのである。読者の混乱はいよいよ窮まるところを知らない。

土星について

虚構に対して強権を振るう作者=《土星》も現実では無力である。だから《土星》は自らを取り巻く現実を虚構として取り込み、それによって他ならぬこの現実を変えられるのだと信じた。かくしておこった土星戦争によって、《土星》は自らを虚構の中へ組み込むことに成功し、現実と虚構は渾然一体となる。もはや、我々にとって明確なるもの、信頼できるものの一切が失われてしまうことになるだろう。ここまで読み進めたとき、ぼくはふとゴダールの『気狂いピエロ』にこんなセリフがあったことを思い出した。

人生と物語が違うのは悲しいわ。同じだといいのに。明解で論理的で整っていてほしい。でも違うわ。

ぼくが思うに『紙の民』とは、「明解でなく論理的でなく整っていない物語」を書くことによって「明解で論理的で整っている現実」を作り上げようとした男の物語なのだ。

*1:カルヴィーノが『新たな千年紀のための六つのメモ』の「多様性」の項で挙げていた、多次元的なテクストの特徴。すなわち、様々なレベルでの解釈が可能となる首尾一貫したテクストの特徴であり、これは思考する自我の単一性に変わって、主体や声や世界に注がれるまなざしの多様性を表している