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鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

Essential Killing

エッセンシャル・キリング [DVD]

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苛烈な映画です。

あらすじとしては、米兵の捕虜となった主人公のアラブ人テロリストが偶然逃亡に成功し、雪に覆われた森の中をたった一人で逃げまくるというお話で、一見して派手な逃亡アクションを思わせるプロットなのだけれど、そのじつ派手な物語なんてものは一切無くて、映像には情け容赦がありません。ここにおいて物語はその役目を追われ、 剥き出しになった出来事がカメラという語り手によって淡々と映し出されていくのみです。

 

主人公のアラブ人には名前がありません。というのも、作中で彼の名前を呼ぶものはどこにもいないし、彼自身が自分の名前を口にすることもないからです。それどころか、彼は作中で一言も喋らないんです。セリフ一切無しで、木の実や蟻を、そして見知らぬ釣り人の釣果や見知らぬ女の乳を貪りながら飢えをしのぎ、白い森の中をただひたすら逃げ回る。そこに物語が入り込む余地はありません。

また、彼を追いかける米兵たちは、「米兵たち」という匿名の集団としてしか登場しません。本作において、本当の意味での登場人物は、おそらく二人しかいないんじゃないでしょうか。つまり主人公と、終盤で主人公を匿う聾唖の女。この二人です。それ以外の人たちは、主人公を苛み、また生き存えさせている冬の過酷な自然環境の一部にすぎません。人間の人間らしさが剥ぎ取られていくこの過程において、やはり物語が入り込む余地はありません。

 

このように、本作には人間の動物的な面が醜く、かつ美しく描かれています。その圧倒的な描写を前にして、物語はあまりに無力です。

だから、この映画における「タリバン兵が米兵から逃げる」という設定は、あくまで単なる設定に過ぎません。これがたとえば「ユダヤ人がドイツ兵から逃げる」だとか、「地球人が宇宙人から逃げる」だとかでも、きっとこの作品の有様は何ら変わることはないでしょう。設定が少し変わったところで、この映画の本体がまさしく映像そのものである以上、たいした違いは出てこないはずです。

さっき「本作には人間の動物的な面が描かれている」と書きました。そもそも本作のタイトルである『Essential Killing』=「必然の殺人」とは、自然の規範にしたがって行なわれる殺し、すなわち動物が純粋にみずからの生存のために他者を殺す行為を意味します。それは、人間が恨みなどの感情によって他者を殺したり、大義のために敵を殺したりする行為とは違います。恨みや大義というのは、人間の社会的な活動の所産であり、言うなれば《人間の社会的な面》であります。これに対して、Essential Killingは《人間の動物的な面》を象徴しているのです。

この人間の動物的な面が極限まで高まるシーンがありました。おっぱいを吸いにいくシーンです。森の中で赤ちゃんに乳を飲ませている母親を見つけた主人公が、飢えで朦朧とする意識のなかで、その母親を押し倒し、乳を吸う。母親は失神。節々に数瞬カットインする、タリバン兵時代の回想と、自分の家族の姿。主人公は母乳だらけの口を拭きもせずにその場を離れ、森のなかで悲しみに暮れてひざまずき、そのままフェードアウト。壮絶です。蟻の巣を見つけて掘り返し、蟻を喰いまくるシーンも大概でしたが、このおっぱいを吸うシーンは度を越えて苛烈でした。

 

そんなわけだから、私ははじめのうち、この映画は《人間の動物的な面》への賛歌であるのだと思いました。過酷な自然のなかを逃げ回り、次第にタリバン兵としての大義も、人間としての尊厳も剥ぎ取られていく主人公。主人公から社会性が失われていく過程を、かくも美しい雪の風景のなかで描いているわけですからね。人間が純粋に社会的な存在だと思って行動するといろいろよくないことが起こるので、だから人間が結局のところ動物にすぎないという事実をまざまざと見せているのかと、はじめは思った。

しかしすぐにそれは違うと思い直しました。そのきっかけは、本作に登場するもう一人の登場人物である、聾唖の女です。彼女は血だらけで倒れ伏した主人公を、米兵の目を欺いて家に匿います。もともと喋らない主人公と、こちらは聾唖の女なので、当然二人の間に言葉はありません。けれど、なにも言わずに介抱する女と、なにもせず、なにも言わずに立ち去る主人公の姿に、研ぎ澄まされた人間の社会的な面が突如としてあらわれます。それは矜恃です。矜恃という言葉で呼ばれる、人間が自然の法則以外で従うべき規範の姿なのです。

だから、これは《人間の社会的な面》への賛歌です。いまある人間の社会的な面を丁寧に剥ぎ取り、動物的な存在としての人間をあるがままに描くことによって、結果として社会的な存在たる人間が従うべき規範を取り戻そうとする、無味乾燥とした遠心性の運動。それがこの映画です。女がくれた白馬にしたたる血の赤によって幕が引かれるとき、われわれはその堪え難いうつくしさのなかに、たったひとりで取り残されることになります。

これは苛烈な映画なのです。