鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

Self-Reference ENGINEについて

むかしの文章をサルベージしたので晒します。
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本書の究極的語り手、自己参照機関=Self-Reference ENGINEとはいったい何者なのか問題。

この疑問を解消するためのヒントは主に「tome」「エピローグ Self-Reference ENGINE」にあると思われます。たとえばエピローグには以下の自己紹介文が綴られています。

私の名はSelf-Reference ENGINE。全てを語らないために、あらかじめ設計されなかった、もとより存在していない構造物。(中略)私は完全に機械的に、完全に決定論的に作動していて、完全に存在していない。それとも、Nemo ex machina。機械仕掛けの無。\footnote{本書359-360頁}

これを読んで思い出すのが「tome」において語られた自己消失オートマトンのお話です。
この自己消失オートマトンというのがまた多分に矛盾を孕んだ存在で、このオートマトンは《存在しない》ことを目的として駆動しているものの、その目的のために手段を行使する当のオートマトン自体は、すでに存在してしまってるんですね。
だから、真に《存在しない》ためには、たえず自分をとりまく世界を書き換え、ありうべきもの全てから逃がれ続ける必要があります。《存在しない》ために、自分のみによって参照され続ける機関、ついに完成された自己消失オートマトン、それが機械仕掛けの無であり、Self-Reference ENGINEなのでしょう。

ここでぼくがふと考えるのは、Self-Reference ENGINEとは物語の究極の語り手として設計された小説機関なのではないかということです。
というのも、ふつうわれわれが物語を語ろうとしたとき、語られるべき物語によって、語るべきわれわれが影響を受け、語られるべき物語にその影響がフィードバックされると言うことが起こりますね。これは円城塔がかつて研究員時代に追っていた、オペレータとオペランドの分離不可能性の構造にとても似通っています。
あるいはSelf-Reference ENGINEは、オペランドから分離された理想的なオペレータとして設計されたのでしょう。
Self-Reference ENGINEは誰にも観測されず、参照もされず、ただ自分だけが自分を観測し、参照する存在です。彼はどこでもないどこか、すべての観測者から隔絶された時空間上を漂いながら、この物語を綴っています。
法則を支配する法則から独立した法則として、いや、むしろそれ自身でSelf-Consistentに完結した無欠の法則として、完全な一個の語り手として、Self-Reference ENGINEはつくられたのではないでしょうか。