鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

筒井康隆『笑うな』収蔵「傷ついたのは誰の心」

笑うな (新潮文庫)

笑うな (新潮文庫)

人間には社会的な側面と動物的な側面がある。人間にある、寝る必要がある、食べなきゃ死ぬ、セックスしたい、こうしたほとんどの動物に共通する欲求や生態が人間の動物的な側面である。では人間の社会的な側面とは? それは言葉によって形成され、ひとびとのなかに共有された、社会構成的な幻想に他ならない。人と人とがコミュニケーションをとること、金でモノを買うこと、言葉で思考すること、すべて人間の社会的な側面であろう。

本作「傷ついたのは誰の心」は、人間の社会的な面が、人間の動物的な面に対して完全に優勢となったときになにがおこるのかを、シニカルに描いた短篇である。帰宅すると新妻が近所の警官に強姦されている。しかし主人公は、警官を引きはがすでも殴るでもなく、いきなり会話を始める。

「警官ともあろう人が、そんなことをしては、いけないのでは、ないですか」

馬鹿げている。だがこれこそが、純粋に社会的な存在たる人間が遵守すべき規範に忠実に則った結果なのではないか。

これはSFだ。思い出すのは伊藤計劃の『ハーモニー』である。人間の動物的な面を執拗に覆い隠した末に出来上がる歪な福祉社会。その萌芽がこれだ。強姦する警官の言い分も、はっきりと論理が一貫している。《新妻が美しいので私は彼女が欲しい、だから押し倒した》という論理である。強姦という動物的な行為さえ、その論理の中へ穏当に組み込まれてしまっている。警官の行動はその全てに理由があり、言葉によって説明されうる。動物らしさは皆無である。この警官は、言葉に従って生きているのだ。警官は権威の象徴なのであって、だから本作において警官は、人間の社会的な側面の象徴となっているはずである。

その警官が、じつはもっとも繊細な心の持ち主であったことが、本作の結末を導く。彼の傷つきやすい心はなにを意味しているのか。傷つきやすい心が引き起こした悲劇さえもが、味気のない言葉として文章化されることによって、心の作用をも社会的なものとしてその論理のメカニズムに組み込もうとしているのだろうか。

不気味な味わい。