鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

三島由紀夫『岬にての物語』より「椅子」

面白かったのでメモを残しておきます。 

岬にての物語 (新潮文庫 (み-3-26))

岬にての物語 (新潮文庫 (み-3-26))

  • 3点リーダの連続を境に、ひっくり返る。前半は母親の悲劇と、健気な息子の献身。後半はそれを覆す、息子と看護婦との情事と快楽が描かれている。前半は母親の悲しみを丁寧に描写し、大衆受けする、お涙頂戴な展開になっている。こうした大衆小説的な、読者の共感をひき出す部分から打って変わって、後半部分では、そうした母親の悲しみや息子への愛が、まったく的外れで自己中心的なものに過ぎないということが白日の元にさらされる。

  • 本短篇に通底するテーマを一言で表すと、「愛」と「呻吟の快楽」の2点となる。一点目は、本文中でも語られているとおり、愛=解釈であり、自己中心的なものに過ぎないという考えである。母親が観ていた息子の悲しみは、当時の息子本人からすれば未だ気づいていない感情であり、そのとき本人はまったく悲しみ何ぞ感じておらず、むしろ悲しみの中にある自分自身に対してナルシスティックな、マゾヒスティックな快楽を見出していた。この母親の愛(息子の悲しみをかなしむこと)と息子の快楽との間の齟齬を、前半部分と後半部分において、理路整然と書き分けることによって、この小説の物語としての面白さを損なうことなく、愛の自己中心性を描き出しているという点で、この短篇は極めてすぐれている。

  • 2点目の「呻吟の快楽」だけれど、これについては、こうしたナルシスティックな感情があるということを、理路整然と描き切ること自体に価値があると言える。この「呻吟の快楽」という概念によって、本作最終行における「母親が籐の椅子から見ていたのは自分自身の悲しみだった」という一文が導かれることとなる。

  • タイトルとなっている「椅子」だが、本作では3つの椅子が登場する。
    1. 母親の座る籐の椅子
    2. 息子の座る看護婦の膝
    3. 写真館の椅子
  • 上記2点については、母親と息子の愛の齟齬を象徴するものとして、すぐれたモチーフとなっている。
  • 写真館に椅子を登場させたことについては、母親が写真館のエピソードを手記に書かなかったという事実に重きを置くためのことと思われる。母親が写真館のエピソードを書かなかったのは、彼女が写真館で息子の悲しみを解き放たんと一瞬決意したものの、結局その決意を曲げて、祖母の待つ家に帰ってしまったということに後ろめたさを感じていたためと考えられる。とりもなおさず、母親は自分と息子の悲しみを解き放つことよりも、現状を維持し、呻吟の快楽を継続することを選んだのである。母親は自分のナルシスティックな快楽のために、息子の悲しみをそのままにすることを選んだのである。そんなエピソードを手記に書けるはずがないのである。