鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

カウボーイ・ビバップを初めて最後まで観ました

物語の有様と、そこから伝わるメッセージとは独立していることを自覚しながら以下を記します。

 

  1. スパイクは自分が一度死んだのだと言う。それならば、カウボーイ・ビバップとは一度敗れて死んだその後を生き続ける、あるいは死に続ける人間の姿を描き続けていたのだ。そんなスパイクが最後に引用した物語は100万回生きたねこであった。この引用を真に受けるなら、スパイクは自分の死に場所を探し続けていたということになる。
  2. だが、ジュリアは「これは夢ね」と言って死ぬ。「ああ、悪い夢さ」とスパイクは言う。ここでメッセージが反転する。つまり、二人は自らの死を虚構だと言ってのける。人生に敗れて一度死に、そのあと自分が生きているのか死んでいるのか判然とせず死に場所を探し続けた二人が、いや三人が、最後にたどり着いた結論がこれである。すなわち、彼らは死にたくても死ねないのである。華々しい、望みに叶う死は虚構に過ぎず、実際は泥臭く生きていくことしか出来ないと言っているのだ。カフカもこう書いている「われわれの救いは死である、しかし、この死ではない」。スパイクとジュリア、そしてヴィシャスが死に場所を見つけたことが偽りであると、セリフは暗に示している。美しい、人生の目的になりうる死がありえないということを、彼らは自分たちの美しすぎる死に様をもって体現したのである。
  3. カウボーイ・ビバップは希望だったのか、それとも絶望だったのか。もちろん両方である。