鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

抽象絵画を観賞するとき

抽象絵画を観賞するとき、そこに描かれているモチーフがなんなのかぼくにはわからない。にもかかわらず、その絵を観ていると快楽を感じることがある。"ある種の小説"を読んでいるときの感覚はこれに近い。

ある文章やある色彩の組み合わせを受容したときに、受容者の頭の中で不随意に展開される快楽がある。ぼくが知らないというだけで、こうした快楽が生成する論理が人間の頭の中にはある。"ある種の小説"は、言葉の意味の論理や物語の論理にしたがっているのではなく、こうした不随意の快楽の論理に従って書かれているのではないか。これは小説というよりも、むしろ詩や短歌などの韻文の快楽に通じる。こうした読み方を可能にするのは、物語や言葉から歴史を取り去ること。そして言葉の意味をぬぐい去り、再定義することだと考える。このようにして再定義された言葉を受け取ることは、抽象絵画で真新しい色や形の組み合わせを観たときのような驚きと興奮を読者に与える。

普通の物語は、読者がそれまでに知っている物語に支えられて成立している。それまでに知っている物語の差分で理解される。でも"ある種の小説"はそうじゃない。というのも、この小説にかかれている出来事が読者の現実の世界からあまりにかけ離れているからこう思うのだろう。たとえばSF は現実の科学や技術の延長線上に乗るようなアイデアが登場するけれど、"ある種の小説"はそうじゃない。ではファンタジーと呼べるかと考えると、それも違う気がする。なぜなら、ファンタジーの文脈と関係が薄いからだ。一般的なファンタジーは、ファンタジーが発明・発見した概念に支えられて成立している。だが"ある種の小説"は、ぼくが知っているどんなファンタジーとも関係が薄い気がする。

"ある種の小説"に書かれている言葉は、読者の現実の世界で使われている言葉と関係が薄い。言葉が独立しているとも言える。"ある種の小説"に書かれた言葉を読んだ瞬間、その言葉はなんのよりどころもなく、何にも支えられずに、荒唐無稽で観たこともない世界を構築する。これは、詩における言葉の用法だと思う。この独立した言葉によって、その言葉の意味が再定義されるのである。」

 

 

 

さあ、きみも"ある種の小説"に任意の幻想小説のタイトルを入れて読書感想文を完成させよう!