読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

神の視点

人の意思が介在しない完璧に無個性な語り、いわゆる神の視点による三人称の語りを実現するにはどうすれば良いか。
 
単に三人称で、語り手の独白などを廃し、進展する事象のみを淡々と語ってみても、それは神の視点による語りにはならないだろう。なぜなら、そこにはなにを書いてなにを書かないか、どの程度細部まで書くか、どこで改行するか、という取捨選択が含まれるからだ。取捨選択は語り手(あるいは書き手)の意思に他ならない。
 
アナロジーを挟もう。たとえば映画の語りはどうか。映画の語りをつくるのはカメラとマイクだ。カメラはなにを映し、どこにズームするかというのは、先ほど言った取捨選択なのであり、そこには人(語り手、または作り手)の意思が介在しているので神の視点ではない。
 
このアナロジーを続けて、では一度動作を始めたら取捨選択をしない定点カメラがあったとしたら、それは神の視点だろうか。防犯カメラを想像してみる。いわゆる神の視点にかなり接近したように感じる。
 
小説の語りに持ち帰ろう。防犯カメラのような語りとは何か。それは改行も句点も読点もなく、ただ目に入った人やものを一切の比重なく、固定された遠近法の中にひり出していくことだろうか。だとしたら、それは神の視点による語りなのか?
お そらくこれではまだ足りない。たとえば文章のなかのカタカナと平仮名や漢字の比率であったり、文章の語意のレベルであったり、その他のあらゆる要素が読者 に語り手および書き手の存在を想像させてしまうだろう。人が文章を読むところには必ず解釈と、読み取られる意思と、架空の語り手が現われる。
 
では八方ふさがりになりそうなので反対の方向に行ってみよう。語りの中から人の意思を削って完璧な無個性をつくるのではなく、無限の個性が重ね合わされた語りを想像する。スペクトルの合成が白色をつくるように、翻ってそれは無個性にならないだろうか。
技術的な問題に注目しよう。あらゆる個性が重ね合わされたような語りとは何だろう。それはどのようにして書かれうるだろう。
 
たとえば多数の書き手が一文ずつ書き継いで一つの文章を構成するというのはどうか。これは意思が溶け合って個性が消えた神の視点による語りになりうるだろうか。
いや、そうはならない。書き手の個性が重ね合わされたとしても、語り手の個性はなお読み取られうる。読者はもちろん、書き手の側でも、それまでに書き継がれてきた文章の中に、語り手の姿を読み取ってしまうだろう。語り手の現出を止められる書き手はいない。
 

botに救いを求めるしかないのか。