鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

新海誠『君の名は。』

「君の名は。」予告

 

1回目を見た感想を書く。2回目を見たら見解が変わると思う。

# overview
君の名は。』観たけどこれはもう秒速五センチメートルで約束の地を追われた俺たちがエジプトを出奔し過酷な放浪の末にようやくカナンにたどり着くまでのいきさつを描いた壮大な叙事詩の最終章だったというか、なんかもう新海誠作品群はメタな視点から見たときに新海誠の成長譚として受容されてしまいもはや主人公:新海誠といった状態なのでもう以降は『劇場版新海誠』と呼ばせていただくが、今回の『劇場版新海誠』は作中の全ての意図が説明ではなく描写によって解明されておりぼくはただただ涙を流すだけの機械と化してしまった。なんかもう「フィクションはこれにて完成です!有史以来ご苦労様でした!!解散!!!」という感じだった。生きてこの映画が見られて本当によかった。新海誠と同じ時代に生きていて本当によかった。ああ今はこの世界を創りたもうた神々に感謝することしかできないよ俺は。

# theme
思春期の残滓、青春の不可能性、一回性、二度と戻ってこないあの感覚を奇跡によって克服してしまった残酷な映画という感じがする。君の名を忘れてしまったら、もう二度と元には戻れない。それに気づいてそれでも前を向いて歩き出すのが『秒速五センチメートル』だったが、『君の名は。』では「君の名前は?」ともう一度聞くチャンスが、奇跡・偶然によってもたらされている感じがして残酷な救済という印象。序盤の交代するモノローグ、終盤のすれ違うシーンなどはそのまま『秒速五センチメートル』だが、本作ではその続きが奇跡によって成就してしまった世界が描かれている。これは残酷なのか?それとも、希望なのか?
三葉の父親は、宮水家の入れ替わり現象の情報を少なからず持っていたと思われる。それは、瀧in三葉に胸倉を掴まれたときのリアクションからそう思われる。彼はそれを妄言癖と形容していた。また一葉は、夢を見たことがあることを覚えている。
隕石事故を無くしてしまうということの意味をよく考えた方がいいかもしれない。忘却について。ラーメン屋のおやじについて。単なる物語や意味に回収できない不穏なもの、その集合が形成する結末の別の解釈を求めたい。
「ここではないどこかへ行きたい」「今の自分は本当の自分じゃないんじゃないか」という想いが新海誠作品にあらわれる分裂したふたつの世界として表出されていたが、本作では岐阜と東京だった。その間には時間の差異が横たわっており、しかしその跳躍にはSF的な説明は付されず、物語の波に乗る僕らと新海誠の感情に即して都合よく乗り越えられていく。こうなると、これまで描かれてきた、たどり着けなくてもなんとかやっていこうというポジティブさ、悲しいハッピーエンドは、どうなってしまうのか。それは、否定されて二度と戻ってこないのか? それを救うような解釈を、君の名は。に求めたい。ぼくはそれを考え続けたいと思う。
思春期の残滓、青春の不可能性、人生の一回性。君の名は。は二度と戻ってこないあの感覚を奇跡によって克服してしまった極めて残酷な映画なんじゃないか?という要約になる。君の名を少しずつ忘れながら生きていかざるをえない僕らにとって、忘却は最良の友であり温厚な看守であった。そのやさしくも冷たい孤独を苦悩の裡に受け入れ、それでも前を向いて歩き出した秒速五センチメートルの達成を、君の名は。は部分的に肯定するものの、「君の名前は?」ともう一度聞く機会を偶然によってもたらしている。これは、あまりに残酷すぎないか?ラーメン屋のオヤジの悲しみを、奇跡の名の下になかったことにしてもいいのか? ぼくにはまだ判断がつかない。


# Performance
- 瀧の中に入りたての三葉がカフェに行くシーン、司たちが木ぐみの天井に感銘を受けている場面で、三葉in瀧は当然そんなものには目もくれずにパンケーキに夢中なのだ。糸守に木ぐみの天井はありふれているらしいということがわかるシーン
- もしかしたら、三葉の自宅の天井を描いたシーンがあったのではないか?僕だったらそれを入れていく
- 勅使河原は序盤でオカルト好きであることが明示されているので、終盤に隕石が落ちてくるという話を信じたことの説明は一応できる
- 瀧の仕事で糸守の街を再建する未来が見える
- 三葉in瀧がバイトを初日からこなし始めるシーン。三葉ハイスペックすぎると思うが、夢だと思いながらヤケクソでやってるからなんか成立してる、という説明は一応できる
- 瀧in三葉が美術の時間に机を蹴って威圧するシーン、言の葉の庭と韻を踏んでいる
- 糸守の絵を見て瀧に協力する高山ラーメン屋のオヤジの視点は、視聴者の視点とシンクロしているので高ぶる。つまり、視聴者は美しい糸守の景色をこれでもかと見せられてきて、そしてそれが破滅してしまった現在の様子を見せられる。俺たちはその悲しさを、ラーメン屋のオヤジと共有しているんだ
- 糸守の湖を序盤に見ると、隕石湖かカルデラ湖か、といった印象を一発で与える。しかしそれについて説明はなく、描写して見せているだけなので、終盤に彗星の話が出てきたときに、物語の快楽を生じる。すなわち、視聴者の頭の中で情報が結合して快楽を生じる
- 御神体の中で口噛み酒を飲んだ直後のシーンの走馬灯
- 描写によって駆動するということは、シチュエーションを描くということであり、シチュエーションの中で物語の整合性などの理屈を描かなければならない。そのハードルは高い。新海誠はその点にそこまで成功していない、もしくは重視していないという指摘があるが、君の名は。に関して言えば、かなり成功しているように思える

 

思うところはたくさんあるけど結論としては、ぼくは新海誠の、映像と音声によって人間を強制的に快楽の坩堝に叩き落とす行為に共鳴するのでこの映画の評価は常に満点ということになります。人間は動物です。ありがとうございました。