鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

§ 碇シンジはどこへ行くのか?
最近新装された「走れメロス・おしゃれ童子 ヤング・スタンダード (集英社文庫)」の表紙のメロスはちょっといくらなんでも走り過ぎだよなあとか思っていたんだけど、なんてことはない、本作でシトを受け止めに走る初号機と比べれば、あんなものは全然走っているうちに入っていなかった。あのときの初号機は、なんていうか、とにかく真っ当に走っていた。どっからどう見ても、あれはまるっきりヒーローの走りじゃないか。だからあのシーンを見て、僕はなんとなく、碇シンジは今まさにヒーローになろうとしているんだと思った。
「走る」と言う行為は、人をカッコよく見せるために一番重要な演出の一つで、たとえば「ボーン・アイデンティティー [DVD]」のジェイソン・ボーンなんかは、ホント気持ちいいくらいにカッコよく走ってくれる。いかにカッコよく走りを魅せられるかというのは演出家にとってすごく重要な仕事だし、実際カッコよく走っているヒーローに僕らは等しく心を躍らせる。それよりちょっと前に「M:i:III [DVD]」という映画があって、僕はこの映画が正直あまり好きではなかったんだけど、その中でたった一つだけ最高に興奮したシーンがあって、それが主人公イーサン・ホークが上海の古い街並みをひたすら全力疾走する場面だった。この走りには本当にシビれた。この映画自体は好きじゃないけれど、あの走りには確かにものすごい力があったし、それは今でも僕の心をつかんで離さない。
そして初号機だ。あのときの碇シンジの走りには、本当にシビれた。それはたしかにヒーローのために演出された「走り」だった。あのシーンが観られただけで、僕は映画館に支払った分を全部取り戻すことができたんだとすら思った。それから、こうも思った。このシンジは、もう我々の知っている碇シンジじゃない。
ゲンドウに「大人になれ」と言われて「僕には、何が大人かわかりません」と答えた彼は、《大人》というものに対してひどく失望していた。この時点ですでに物語も、いろいろな物事がみんなグチャグチャになってしまっていて、彼に限らず劇中の人物たちの誰もが、にっちもさっちもいかない状態になっていた。
旧作だとこのままウジウジとまた悩み続けることになるんだけど、そうはさせまいとここに登場するのが、真希波・マリ・イラストリアスだ。彼女によって、物語は大きく変わっていく。身動きの取れなくなった物語に巨大な突破口を開けて、マリはデウス・エクス・マキナ(→マキナミ)としての役割を果たす。旧作だと加持リョウジがシンジの背中を押すところだけど、やっぱり《大人》である加持に背中を押されたってシンジは結局最後までは素直に前へ進めないんだろうし、それでは先ほどのあまりにヒーロー然とした「走り」が台無しになってしまう。だからここで《子供》であるマリが加持の代わりを務めることは、彼らにとっては偶然の出来事だったとしても、作品にとってはひどく必然的なことだった。こうしてシンジは初めてヒーローになったのだ。だって、目一杯手を伸ばして「来い!」と叫ぶ彼の姿は、まんまロボットアニメの、エヴァ以前のヒーローそのものじゃないか。
こうしてシンジは新境地を見つけた。作品は原点へ回帰した。そして僕らは置いていかれた。
最後にレイを抱きながら「これでいいんだ」と呟くシンジだけど、このセリフは自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。彼はようやく本来の姿を見つけて、これが答えなんだと自分に言い聞かせる。これでいいんだ。
しかし、本当にそうだろうか。違うだろう。ロボットアニメのヒーローは、結局はただのヒーローだ。所詮は《子供》の憧れでしかないし、子供の憧憬にすがったところで《大人》にはなれない。そんなことで、《大人》を乗り越えていくことがどうしてできるんだろう? だから、このシンジの姿が作品の解答として提出されるということはまずありえない。やっぱりゼロ年代のヱヴァなんだから、「エヴァ以前」や「エヴァ」とは違う解答を期待するべきだ。あの初号機の「走り」にはたしかに最高にシビれたけど、僕らはあのカッコよさに、やっぱり見切りをつけなくちゃいけない。少なくともこの作品は、これからそういう方向に進んでいくはずなんだ。
「破」に至って、碇シンジはようやくスタートラインに立つことができた。結局はそういうことなんだと思っている。


§ なにが真希波・マリ・イラストリアスを要請したか
マリはとても現代風な娘だ。外見もそうだし、なにより決断主義的なところがある。冒頭で「すごく痛い、けど、楽しいから、いい」と叫びながら闘う彼女には、「エヴァ」的な迷いや悩みの欠片も見当たらないし、何もかもはじめからすでに決まっているみたいな不敵さがある。だから要するに彼女は、すごくゼロ年代っぽい女の子だ。
「破」における旧作からの改変で一番大きかったのは、やはりマリの追加と、アスカの設定変更だろう。たしかに他のキャラクタたちも旧作からはだいぶ変わった行動を取り始めているけど、それらの元を辿っていけば、きっとこの二人に行き着くんだと思っている。たとえばシンジがあんなに熱血になったのは、アスカのことがあって、その上でマリに背中を押されたからだ。アスカがああなったのは彼女自身の設定が変わってあんなあらかさまな死亡フラグを立てちゃったからだし(違)、マリにははじめから機械仕掛けの神としての役割が与えられている。だからこの「破」については、この二人がもたらす変化が、そのまま作品の旧作からの変化ということになるんじゃなかろうか。
ゼロ年代を代表する真希波と、'90年代最後の変化を体現した(であろう)式波とを物語の中に取り込んで、新劇場版は目下現代の先、すなわち'10年代の物語として生まれ変わりつつある。

Vocaloidのこと

以前「音楽と歌詞の関係」で書いたとおり、歌詞は音楽に付随するものだとぼくは思っている。
人声を楽器と捉えれば、歌詞が意味することがらは音楽と直接は関係しない。言葉とは人間の頭にある概念と結びつくべきもので、それは聴覚によって受容されるが、聴覚を楽しませるためにあるわけではないのである。音楽と歌詞を同時に受け取ることで生じる効果について否定しようという気はまったくないけれど、純粋な意味での音楽と歌詞を分離して考えたいという気持ちは思いのほか強い。

人の発声機構は管楽器(中でもリード楽器)に例えられることがあり、管楽器に近いと思っている人は多いかもしれない。管楽器と人声の共通点は、発音体を作動させるのが呼気流であることと共鳴器を変形させる点である。ただし管楽器の共鳴器変形は音高調節のものであるのに対し、人声の場合は音波変形のための機構で、両者はかなり異質なものである。また、音高調整のために発音体を変形させる点は弦楽器に類似し、輪状甲状筋などを弦楽器のペグ(糸巻き)に例える人も多い。人声の共鳴器のように多種の音波を生む機構は他の楽器には見られないものであり、ダイレクトに波形を変形させる点からするとエレクトリックギターのエフェクターが類質の装置としてあげられるだろう。あるいは多用な音色を扱うという点をみるならば、パイプオルガンのストップ(音栓装置)やシンセサイザーが、人声に最も近い特性を持っていると言える。シンセサイザーとしてのVocaloidは、人声を真似るためにうってつけの楽器であった。

初音ミクは、そのキャラクター性を抜きにして考えると、単に人の声に近い音を出すことができるという点よりも、それが言葉を持っており、そのために独自の倒錯した特性を備えた楽器として機能したという点にこそ最大の新奇性があったのだと考える。日本語の歌手には日本語特有の発音方が、英語圏の歌手には英語特有の発音法があって、これらの違いは、それぞれの歌手を人声を操る演奏家と捉えた場合、楽器の特性の違いに相当するだろう。たとえば日本語でのラ行の発音と英語圏での「r」「l」の発音の違いが、それぞれの人声に楽器としての特性を与えているのである。そして初音ミクという歌手は、たとえ彼女が日本語で歌っていたとしても、新奇な特性を持った楽器として捉えられる。なにしろ彼女は一種のシンセサイザーであって、何らかの母国語に基づいた特性を持つ人声を操っているわけではないからだ。言語の違いからくる特性の違いが、楽器自体の違いからくる特性の違いとまぜこぜになるという倒錯。だからそういう意味において、彼女は日本語を、そして英語や他のいかなる言語をも、話すことはできないのだ。
あるいはその欠落が、初音ミクという楽器の一つの魅力となっているのかもしれない。

入間人間『電波女と青春男』

電波女と青春男 (電撃文庫)

電波女と青春男 (電撃文庫)


この作品について語ろうとするとき、『AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)』がよく引き合いに出されているみたい。両者ともに扱っている題材が同じで、サブカルに対するメタ的な視点を持った作品なので、当然似通った点も多くなってくる。しかし実際読んでみると、これら二作品はお互いに結構違うことをやっているというのがわかる。

未成熟の人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。

これはウィルヘルム・シュテーケルの例の言葉だが、これと照らし合わせてみると少しわかりやすいかもしれない。
まず両作品におけるヒロインたちというのは、俗に言うところの中二病患者であり、前者の未成熟な人間の特徴を持っていると言えそうだ。なぜそうなったのかという動機付けはされていたりされてなかったりするが、今は物語自体について話しているわけじゃないので、それはあまり重要ではない。
一方これに対して主人公たちの立ち位置はどうなのかというと、これが両作品でまったく違っているのである。『AURA』の主人公佐藤一郎は、ひたすら普通の生活を追及するという点において後者の「成熟した人間」の特徴を持っていると言える。幸せになるためには幸せのハードルを下げなければならない、つまり理想を成就するためには妥協が必要不可欠である、と高校生のくせに悟りきっちゃっているわけである。その一方で『電波女と青春男』の主人公丹羽真は「青春ポイント」なるものに準拠した、彼自身が望む青春を追及していく。要するに彼の青春は、前者における「未成熟な人間」が抱きがちな妥協のない理想そのものだ。だから『AURA』の佐藤一郎はヒロインの佐藤良子を物語の中で成熟させることに成功したが、『電波女と青春男』の丹羽真はヒロインの藤和エリオを成熟させたということには決してならない。
丹波真の興味の対象として「深海」というキーワードが作中によく出てくる。これに対して藤和エリオは「宇宙」に救いを求め、その理想を決して妥協させることなく追求しようとする。「深海」と「宇宙」は、ともに未知の世界であるという点において似通ったものである。藤和エリオは空を飛ぼうとして失敗し、結果的に丹波真は彼女とともに海へ落ちた。これが「宇宙」から「深海」への移り変わりを意味しているのであれば、丹波真は藤和エリオを、単に新しい「妥協しない理想」へと引きずり込んだだけということになるのではないか。だから二人は、まだ成熟への道を歩きだしてすらいないのではないか。
今後の展開が楽しみではある。

レイモンド・カーヴァー『頼むから静かにしてくれ』

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)


頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)


レイモンド・カーヴァーによるこの素晴らしい短編集は、僕にとってはまさしく宝石箱のようなもので、きっとこれからもずっと読み続けていくことになるんだろうなと思う。しかし宝石箱とは言うものの、ここにはきらびやかに自己主張するいかにも可憐な宝石なんて一つも入っていない。ここにあるのは、どこまでも深い色調をたたえた日常の悲しみだったり、のっぴきならない憂鬱に囚われてしまった人間のわびしさだったりする。ありふれた日常に潜む、荒涼とした物悲しさ。それはもしかしたらサリンジャーが言うところの"Squalor"なのかもしれないし*1、あるいは僕らが生きているということそれ自体の悲しさなのかもしれない。救いのない状況に追い込まれたとき人間はどうなってしまうのか。そしてもしもそんな状況に立たされたとき、僕らはいったいどうすればいいのか。たった一瞬の空気を瑞々しく文章に切り取ることによって、カーヴァーは、こんな疑問を僕らにまざまざと突き付けてくる。波紋一つ立てずに、それでいて雄弁に。

表題作を読んで僕は泣いた。そのあまりのみじめさに、僕はすっかり耐えきれなくなってしまったのだ。一作の短編小説にここまで打ちのめされてしまったのは、実に久しい体験だった。

*1:エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに ( For Esmé with Love and Squalor )より。Squalorは野崎訳では"汚辱"と訳されている

円城塔あるいは構造を描き出すための小説機関

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)


物語に基づかない小説は、具象に基づかない絵画と立ち位置がよく似ている。
前回のエントリを書きながら、ふとこんなことを思った。ここで言う「具象に基づかない絵画」とはカンディンスキーの描く抽象絵画のことを指していて、「物語に基づかない小説」というのはもちろん、今回取り上げることになる円城塔の小説を指している。ひとまずここでは、主題として取り上げる円城塔の小説と、例として取り上げるライトノベルと現代小説との関係性、そしてそれらと対比する形で紹介する抽象絵画の例について書いておく。

§ 絵画と小説、具象と物語

一般に絵画とは、具象を平面に描くことによって成立する芸術であって、これに対して小説とは、物語を文章として書くことによって表現されるものだ。両者において「具象」と「物語」は同等の役割を果たている。つまり「具象」と「物語」は、絵画と小説という二つの媒体の基底をなすものであり、絵画作品と小説作品それぞれの成り立ちにおいて、これらに先行する概念は本来存在しないのである。これが世間一般での話。じゃあ一般じゃない話とはなんなのかというと、ここで冒頭の言葉が出てくる。「具象に基づかない絵画」と「物語に基づかない小説」である。まずは「具象に基づかない絵画」について見てみよう。

これはいわずもがな、カンディンスキーに代表されるような抽象絵画を指す言葉だ。これは現実に見られるような具象を放棄し、一見して意味をなさないような抽象的なデザイン・モチーフなどを用いて描かれる絵画のことである。このような手法はそれまでの具象に基づく絵画とは一線を画していて、はじめこそ人々の目に奇異に映ったかもしれないが、現在ではその純粋な構造美に多くの人が心奪われ、絵画の世界において最も注目される分野のうちの一つとして数えられている。このようにして、もともと具象を描くものとして発達した絵画から、具象に基づかず、純粋な構造美を追求したものが生まれたというわけだ。抽象絵画は、(狭義の)「絵画」という表現媒体の枠から大きく足を踏み出した絵画であると言えそうだ。

さて、このように「具象に基づかない絵画」について説明してしまえば、あとはこれと対比することによって「物語に基づかない小説」についても説明できる。小説を絵画に、物語を具象に置き換えれば同様のことが言えるのである。このようなタイプの小説としてはいわゆるライトノベルと呼ばれるものがすでに広く知れわたっているので、これを例として少し説明することにしよう。

すでに多くの批評家によって指摘されつくしていることかもしれないが、ライトノベルの特徴は「キャラクタに基づいた小説」であるという一言に尽きる。書くべき物語がまずあるのではなく、書くべきキャラクタが物語に先行して存在している。まずキャラクタの存在があって、そこからそのキャラクタを動かすのに相応しい物語が構築されていくという順序で書かれているのだ。これは通常考えられる小説という媒体の表現の手法から、かなり逸脱したものであると言える。なにしろ小説とはもともと物語を書くものとして発達したものであって、その中においてキャラクタとは、物語によって要請されて初めて登場するものにすぎないからである。

本来、近代文学のうちの一ジャンルである小説は、たとえば純文学だとかミステリだとかSFだとか、そういういくつかの細かいジャンルにカテゴライズされているという状況がある。たとえばミステリを例に取ると、これは何らかの事件に起因する物語を取り扱う小説と定義付けることが出来るだろう。ミステリ小説においては、事件の真相の追求という要素が、いわば物語を語る上での道具として使われているのだ。同様にSF小説では、科学的知見/論理が物語の道具として消費されるという構図になる。基本的にこれらの小説は、一般の近代文学と同様、はじめに物語ありきで成り立っているのである。ここでは当然物語に登場するキャラクタたちも物語を語る上での道具として消費されており、これら従来の小説から見たとき、キャラクタを語るために物語を消費していくというライトノベルのあるべき姿は、はっきり言って、かなり異質に映ることだろう。しかしながら、現にライトノベルに分類される作品群は多くの需要に支えられており、本来の物語に基づく小説とは異なる形態で、しっかりと成り立っているのである。このようにライトノベルは、絵画における抽象画の立ち位置と同じように、(狭義の)「小説」という表現媒体の枠から大きくはみ出した小説であると言えるだろう。

ここまで「物語に基づかない小説」とはどのようなものであるのかをライトノベルを例にとって説明してきたが、次からはいよいよ円城塔の小説へ移ることにしよう。

§ 構造に基づいた小説

一言でいってしまえば円城塔とは、「構造に基づいた小説」を書く作家である。ライトノベルが物語ではなくキャラクタを基底として成り立っているのと同様に、彼の小説は物語ではなくて、何らかの数理的構造を基底として成り立っているのだ。彼の小説では、それぞれの作品がある特有の「構造」をもち、まさしくその「構造」を説明するために物語が消費されていくという節がある。
たとえば、短編集『Boy's Surface』収録の表題作においては、作品の根幹をなすレフラーとフランシーヌの初恋によって浮き彫りにされる僕らの認識と真理との間に横たわる壁(という構造)が、【何かが起こりうるのは、それが繰り返しの可能な構造を持っているからであり、実際に繰り返されているからである】とする(ポワンカレの)再帰定理をはじめとする理論構造だとか、また無尽蔵に己を複製してゆく「レフラー球」なる一種の数学的構造が語る物語を通すことで描かれている。

「Boy's Surface」と「Your Heads Only」を構想する上で作家自らがつくったプロットが、Anima Solarisに掲載中のインタビューにとりあげられているので、以下に引用させていただく。

"Boy's Surface"
"Your Heads Only"

これを見れば、彼の小説が物語ではなく構造に基づいているということを、直観的にわかっていただけるだろう。これは彼の小説が、物語という道具によって構造を描くという手法によって書かれていることを明確に示唆している。特に「Boy's Surface」という作品をつくるこの構造は、おそらくレフラー球という写像がつくるトルネド構造の単純なモデルとなっており、これは無限に出会い続けることと無限にすれ違い続けることとをストレートに読者に想起させる。ここには、いかにも名状しがたく、また理詰めでは分析しがたい抒情性が満ち溢れている。この作家が持つ文学性は、おそらくこういった部分にこそ存在しているのだろう。

§ 「構造に基づく小説」の手法

円城塔の作品全体に言えることとして、ちいさな断章を多く使うという点がある。『Boy's Surface』では、すべての短編がほぼ同じ分量のいくつかの断章によって構成されているし、長編『Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)』に至っては、多数の短編の集合体とみられてもおかしくないほどに作品全体が断章によって縦割りされている。このような傾向は、作者がいくつかの断章(物語)を組み合わせて一つの作品を構成するという手法を取っていることを意味しているのではないだろうか。彼の作品がなんらかの数理的構造に基づいて作られているということを思い出せば、このような手法が積極的に取られているということにも納得できる。たとえば衣服を仕立てる時を考えても、一張羅をこしらえるというのはなかなか骨の折れる仕事だろう。

また、彼の小説を一読したことのある人ならわかると思うけれど、円城塔が書く日本語はどこか独特に感じられる。たとえば以下に引用するのは、「Boy's Surface」収録の短編『Gernsback Intersection』の冒頭だ。

奇蹟からしか始められないものがあるのならば、奇蹟でしか終われないものがあっても構わない。最初から始まりっぱなしなので誰にも止めることはできなくて、こうしてただ続いていく。続き方にも色々あって、続き方さえ続いていく。

また、以下は『Self-reference ENGINE』からの引用。

この見解へ一等最初にたどり着いたのは、残念ながら僕ではない。
記録には全く残っていないのだが、一人の老教授の最終講義が鯰文書の全貌を明かしたものとして残されていない。
お前は何を言っているのかと言われそうだが、事実の方がそうなのだから仕方がない。

読むたびに「おや?」と見返してしまうような、一見して意味が通らなかったりわかりにくかったりする文章が、いとも無造作に顔を出してくる。僕が思うに円城塔という作家は、自分が書く文章の「構造」に非常に自覚的なのではないだろうか。つまり彼は日本語の文法の形に自覚的なのであり、構造物としての文章が成り立つ範囲で、その文の要素をフレキシブルに代入するような形で、文章を書いているのではないか。要するに、文の構造がまず先にあり、そこに言葉を代数学的に当てはめていくようなイメージだ。上の引用に見られる「記録には全く残っていないのだが、一人の老教授の最終講義が鯰文書の全貌を明かしたものとして残されていない」という箇所は特にこの傾向が顕著で、これ単体では一般的な文としての意味をなしていないとすら言えるだろう。しかしこれは、作中の文脈ではしっかりと意味をなしているのである。このような文章を書くためには、自分の文章の構造に対して極めて自覚的にならないければならないはずで、円城塔はこの点をよく心得ているからこそ、きちんと破たんしない文章を書けているのだろう。このようにして彼の日本語は、ひねくれた構造美を獲得するに至ったのだ。

ここに挙げた二つの例を見ればわかるとおり、「構造に基づいた小説」を書くために彼がとっている手法にもまた、構造性が顕著に表れていると言えるのではないだろうか。

§ 従来のSFと、構造に基づくSF

さきほど、「物語に基づく小説」としての従来のSF小説では、科学的な論理構造は物語の道具として消費されるものであると述べた。しかしこの説明だけではわかりにくいという声も上がるだろうから、どういった点で「物語に基づく」としているのか、具体的な話をしてもう少し詳しく見ていきたいと思う。

ここでは例としてグレッグ・イーガンの長編『順列都市』を取り上げよう。『順列都市』では、《塵理論》と呼ばれる理論構造が、物語全体を成立させるアイデアとして存在している。主人公のポール・ダラムが考え出したこの理論が、物語全体を駆動し、この理論抜きでは物語自体が成立しないとも言える。この《塵理論》は、それだけ理論構造として奥深く、また十分複雑であるがゆえに、その組み立てにはかなりの労力を要したことだろう。だから、おそらくイーガンはこの小説を書くにあたり、まず《塵理論》のアイデアを考案し、十分に熟成させてから物語を書くという順序をとったにちがいないのだ。

さて、もしかするとあなたは、ここで疑問を持つかもしれない。理論構造を先に考案して、それから物語を書いているということは、この『順列都市』も「構造に基づく小説」であると言えるのではないか。それなのに、どうして円城塔の小説が「構造に基づく小説」であると特筆しているのかと、こう思うかもしれない。

しかしこの文脈において、その疑問は少し見当違いであると、あえて言わせていただこう。『順列都市』も他の従来の小説と同様、「物語に基づく小説」なのである。

要するに、作家がその作品を作り上げた手順は、その作品自体の持つ性質とは関係しないということだ。これは小説に限った話ではないが、創作物とは、作者の手を離れた時点で作者とは関係ないところで独立するものである。その作品がどのように受け取られるのかということは、もはや作者の思惑の及ぶところではないのだ。『順列都市』に限らず、多くのSF小説は、まず科学的アイデアありきで作られているだろう。しかしその小説自体が準拠しているもの(=物語)は、それが作成された手順と関係なく存在しているのである。たとえば『順列都市』では、ポール・ダラムたちの物語を駆動するための装置として《塵理論》が使われている。作者によって使われているのではなく、物語によって使われているのである。つまりこの小説においては、《塵理論》という論理構造のアクロバットが、物語を盛り上げる役割を果たしているのだ。その一方で、「構造に基づく小説」としての円城塔の作品では、逆に物語のアクロバットが、理論構造を盛り上げるという役割を果たしている。つまりはそういうことだ。

このように考えると、円城塔の小説にしばしば見られる不条理さにも納得できる。なにしろ彼の物語は、「構造」を描く(盛り上げる)ために存在しているのだ。そのような要請で作られた物語に、僕らの現実認識との整合性を求めること自体間違っている。「構造」を表現するために自由自在に形を変える物語のアクロバットは、ある程度の不条理なしでは、必要なだけの柔軟性を得られないのである。

さて、これで従来のSFと構造に基づくSFとの違いについて、うまく説明できたんじゃないかと思う。ではこの節の締めくくりとして、『Self-reference ENGINE』の帯に書かれた神林長平の紹介文について触れよう。

円城塔は本書でもって、かのオイラーの等式を文芸で表現してやろうと企図したのではなかろうかと想像する。

このように神林長平はすでにこの時点から、円城塔が構造を描く作家であると指摘している。彼の解釈によれば、オイラーの等式という数理的構造を描くための物語群として、『Self-reference ENGINE』という作品は成り立っているのである。その構造美を愛でることができる人間にとって、この小説は、オイラーの等式ほどは美しくないのかもしれないが、それに勝るとも劣らず面白い作品としてその目に映ることだろう。

§ 構造を描き出す小説機関

前作『Boy's Surface』は恋愛小説集として発表されたが、これはさほど驚くべきことではない。そもそも円城塔が書いているのは従来のSF小説ではなく、「構造に基づいた小説」としてのSF小説なのだ。その枠組みの中では、たとえば純文学をやろうがミステリをやろうが、全く問題にはならないだろう。従来の小説が「物語に基づいた小説」として純文やミステリやSFなどのさまざまなジャンルを抱えているように、ライトノベルは「キャラクタに基づいた小説」として、同様にミステリやSFなどのジャンルを抱えている。「構造に基づいた小説」が同じようにさまざまなジャンルを抱えてたとしても、それは何ら驚くべきことではないだろう。

円城塔の作品においては、人間以外の語り手によって物語が綴られるという事態がしばしばおこる。それは何らかのアルゴリズムであったり、無限に複製を続ける写像であったりと、枚挙にいとまがない。あるいは円城塔という作家はある種の数理的論理構造を表現するための小説機関として存在しようとしているのではなかろうか、なんて考えたくなってくるくらいだ。
そんな彼が描き出すひねくれかえった構造美は、不思議なくらいに魅力的で、かつ不可解なほど抒情性に充ち溢れている。なぜ物語から離れた純粋な構造としての円城塔の小説に対して、我々はこれほどの魅力を感じることができるのだろう? 彼の小説は、どうしてここまで文学的になれるのだろう?
答えはきっと、彼の描き出すねじくれかえった構造美の迷宮の中にある。それは円城塔にしか書けない、最上の “構造小説” なのである。

人間の意識と選択の余地

以前書いた記事「人間の意識と慣れ」で、ある環境に対する人間の意識は、その環境に慣れるにしたがって徐々に薄らいでいくと述べた。例えば生まれて初めて泳ぎを教わるとき、僕らは腕を回す周期とバタ足の周期とを、教わったタイミングで持続させられるように意識し、また手のひらを水が良く掻けるような形で維持するように意識したりしながら泳ぐ。しかし泳ぎを練習していくにつれて、そんなことをいちいち意識しなくても、基本的なことは自然とできるようになっているというわけである。無意識とは、慣習化によって生み出されるわけだ。
では、そもそも《慣れ》とはなんだろう。慣れが無意識を生み出すのであれば、その慣れは何から生まれてくるのだろうか。
僕が思うに《慣れ》とは、何を選ぶべきか迷う余地のない選択を言い換えたものではないだろうか。先の例で言えば、掻き手とバタ足の周期についていちいち迷う必要がなくなった状態が、泳ぎになれた状態と言い換えることが出来る。要するに、迷うことを放棄した状態が《慣れ》であり、この選択を放棄した状態が、そのまま無意識と言い換えることが出来るわけだ。人間の意識の本質とは、《迷い》なのである。
こう考えると、人間以外の動物がはたして意識を持っているのか、怪しくなってくる。意識がない状態とは、感情の起伏やその他の精神活動がない状態とはまったく違うのだ。常に生存のための最適な選択を行う野生の動物たちは、はたして《迷い》のような、生存に直接の危険を伴う現象を選択するだろうか。そこに選択の余地はあるのだろうか。彼らが捕食者に睨まれた状況を考えてみれば、意識を働かせるような暇なんてどこにもないように思える。ぐずぐず迷っているような暇があれば、さっさと逃げ出すに決まっている。そこに選択の余地はないのではないか。
あるいは意識とは、人間という種が進化の途上で獲得した、一つの特色なのかもしれない。

グッドラック―戦闘妖精・雪風 / 神林長平

戦闘妖精・雪風(改) (ハヤカワ文庫JA)

戦闘妖精・雪風(改) (ハヤカワ文庫JA)


グッドラック―戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)

グッドラック―戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫JA)


前作ともども非常に楽しめた。二作目に当たる『グッドラック』に入ってからというもの主人公である深井大尉の属する特殊戦メンバーたちの個性も非常に魅力的に感じられるようになり、一気に読み終えてしまった。また、メカの描写も偏執的なまでに仔細に渡っており、戦闘機好きにはたまらない。特に空戦の臨場感は圧巻だった。しかしこの作品はそういったフェティッシュをみたすためだけのものであるはずもなく、むしろこれらは作品のテーマに付随する要素でしかない。
この作品では、未知の異星体との闘争のなかで、自分が闘っていることの意味を主人公たちが内省的に思索していく過程が非常に鮮明に描かれており、緊迫した目まぐるしい戦闘状況がこれをまったく退屈させずに読ませてくれる。これはとても思弁的なSF小説で、機械と人間の相克というよりはもっと大掛かりなもの、すなわち自分という存在と他者との関係性について述べている。機械知性体に感情はあるのか、意識はあるのか、また我々は他の人間のことですら完全には理解できないのに、自分たちと異なる生命のことを少しでも理解することができるのか。そういった哲学的な命題へのアプローチの仕方の一例を、この小説は提示してくれている。
紆余曲折の後に機械知性体「雪風」が意識(あるいは意識と似ていても自分たちには原理的には理解できない何らかの概念)を持つと考えるようになった深井大尉は、作中で雪風について以下のように語っている。

雪風に意識があるかないか、というのは、そんなことはどうでもいいんだよ、桂城少尉。雪風があたかも意識を持っているかのように行動する、というのが問題なんだ。その理由はきみが言った通りかもしれないし、それを間違っていると言うつもりはおれにはない。重要なのは、雪風は我々には理解不能な存在だ、ということだ。きみも頭ではわかっているだろう。そのとおりなんだ。雪風は、こちらのうかがい知れない《なにか》を持っている。それは意識かもしれないし、意識になぞらえられる無意識的な模倣機能なのかも知れないし、人間とは全く異質な機械意識なのかもしれない。しかし、それがなんなのかは、どうでもいいことだ。
重要なのは、その理解できない雪風の《なにか》とコミュニケートすることだ。その《なにか》こそが雪風の本質なんだ。

これは異星体にも同様に言えることであり、極論を言えば自分以外のすべての存在に対して言えることなんだろう。
乾いた筆致で綴られる無機質な世界に生きる病的なまでに冷徹な人間たちの中に、しかし彼らもたしかに自分と同じ人間であるという親近感を抱いてしまった瞬間、僕は作者の意図にまんまとハマってしまったのかもしれない。