鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

Andreas GURSKY展@国立新美術館

表題の通り、先日グルスキー展に行ってきました。そこでグルスキーの写真に関する所感を以下に記します。

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近景と遠景の二面性

グルスキーによるいくつかの作品では、ある二面性が強調されている。すなわち、遠景の抽象⇔近景の具象、という二面性だ*1。グルスキーのいくつかの作品(たとえば『パリ、モンパルナス』や『ライン川II』、『99セント』など)を遠くから眺めると、カンディンスキーやロスコのような、卑近な具象から離れた色彩と構造の美が伺える。だが一方で同じ作品を間近で眺めると、人ひとりの表情や生活、動作、それらのディテールの豊かさが見て取れる。これらの相反する印象が、一枚の写真に同居しているのである。

ここから印象に残った作品についてそれぞれメモを記す。

無題XII

ムージルの未完長篇『特性のない男』から断片的に抜き取った複数のセンテンスを繋げて、ひとつのテキストを作成し、それを製本したものを撮影したという。ランダムな組み合わせによって創られたテキストという明け透けな虚構性と、それを小細工なしで写真に撮るという有無を言わさぬ現実性とが、一枚の写真の中でせめぎ合っている。

バンコクと名付けられた一連の作品群

解説によれば、チャオプラヤ川が写されているようだ。縦長の画面一杯に広がる川面を、はっきりとした一筋の光が縦断する。この神秘的な一筋の光を描き出しているのは、偏光グラスによる効果と、水面に浮かぶ油の効果によるものと推測される(デジタル加工も行なわれているか)。こうした抽象絵画のような趣に惹かれて間近からよく観てみると、それまでの印象が反転させられる。川面に浮かぶ無数のゴミが目に入るのだ。こうして遠景の抽象⇔近景の具象との極端な対比が、新鮮な驚きをもって観るものを困惑させる。我々は自分たちが求める美しい虚構と、ゴミにまみれた現実との間で困惑することしかできない。

無題I

カーペットと思われる面を画面一杯に写した写真。冷たい色。冷たい手ざわり。

パリ、モンパルナス

別のアングルから撮った写真をいくつか組み合わせることによって、平面的な画面がつくられている。そしてこの平面性が、ロスコやカンディンスキーのような抽象性と結びついてくる。すなわち、平面化とは具象の個性を剥奪する操作である。アパルトマンの窓をあれだけたくさん平面に並べられれば、それはモザイク模様にしか見えない。それぞれの窓の個性は剥奪され、画面全体が幾何の模様にしか見えなくなるのだ。

無題V

手元のメモには、無題Vと題されたに対するコメントとして以下の文章が残っている。たしか無題Vは、ショーケースに並んだ男物の運動靴を平面的に写した作品だったはずだ。この作品において、平面化され、羅列された運動靴は、個性が剥奪された存在である。これは無個性化 - モザイク化 - 抽象化への有力なアプローチである(構造主義者たちの手段)。

Oceanシリーズ, Antarctic, 無題X

ふだん不特定多数の目に触れる衛星写真をデジタル加工してできた作品。衛星写真とは先天的に個性を剥奪された写真であると言えよう。なぜなら、それは地球表面を写すという制約のなかで無限に撮られうるものであって、唯一無二の衛星写真というのは存在しないからである。この無個性な衛星写真にデジタル加工(グルスキーならではの深い青)を施すことで、グルスキーは無個性⇔個性の二面性を写真に付与している

ピョンヤンシリーズ

ピョンヤンと名付けられた作品。本作品に付加された全体主義国家という社会的コンテクストのために、はじめ無個性な、抽象的な遠景が目に入る。すなわち、その写真に収められた女たちが描こうとしている絵そのものが、はじめ目に付く。しかし、この作品にはやはり無個性⇔個性の二面性が隠されている。隠されたもう一面とは女達の表情である。彼女たちの顔や表情はそれぞれ違っており、そこには個性がある。剥奪された個性が、遠望レンズによる素晴らしい解像度によって、回復されるのである。

無題II

茶色い地面に石か岩が散在している光景である。恐らく石だろうか。かなり接近して撮った作品であると思われる。しかし、岩だと言われても納得できる、もっと遠くから収めた遠景だと言われても。結局のところ、この石⇔岩の異なるスケールを行き来する循環性は、グルスキーが多用してきた無個性化のアプローチのひとつの表出なのではないかと、私は考えたのだ。

*1:適切な単語が思いつかなかったので《遠景》《近景》という単語を使っている。これらは通常の意味としてではなく、《作品を遠くから眺めたときの印象》と《近くから眺めたときの印象》という意味で使っている

草稿 A

草稿 A.1

疲れた僕は家に帰るとシャワーを浴びてビールを呑んでインターネットに興じています。昨日の疲れた僕も、家に帰るとシャワーを浴びてビールを呑んでインターネットに興じていました。きっと明日の疲れた僕も、家に帰るとシャワーを浴びてビールを呑んでインターネットに興じることになると思います。時間はね、みなさん、時間は一本の矢のようにまっすぐ進んでいるとお思いでしょうが、そうとは限りません。特にこの疲れた僕のように、周期的に経めぐる体験のなかに身を置く意識にとって、時間は、もっと奇怪な働きをみせる場合があるのです。たとえば、今日の自分が、昨日の自分を生きるということが、時おり起こるのです。時間の流れが、突如として僕たちの過去の体験を、現在の現実として連れ戻すという事態が、起こりうるのです。こうした時間の特殊な振るまいは、疲れた僕らを時間の外へ、ある別の世界へ導きます。この時間の切断を自覚しない人にとって、日々はいかにも単調で、退屈なものに映るに違いありません。 

 

草稿 A.2

「緑の海」をテーマに15分で小説を書けと言われたので、わたしは以下のように書きはじめました。

多重債務に追われて、気付いたら小さな舟で海を進んでいる。記憶がたしかであれば、わたしは4人目の私だ。

1人目の私はシキシマミノリといって、北海道南西沖地震のときに行方不明になった。彼女は当時14歳で、粗暴な父親から逃げるようにして消息を絶ち、そのまま被災者として行方不明になった。

2人目の私、タナベリナはかつて自分がシキシマミノリであったことをもちろん覚えていたけれど、周囲の誰もがそのことに気付かなかった。性的虐待を繰り返す里親の元で中学校を卒業しようとする最中に兵庫県南部地震に見舞われ、彼女もそのまま消息を絶った。

こうしてイシカワマサミが生まれて18年後、債権回収業者は彼女の名前をリストに書き加え、その翌年の春に東北地方太平洋沖地震が起こる。被災者として行方不明となった彼女は、その人生とともにすべての債務から見放され、結果としてわたしが4人目として緑の海を漂うことになる。

四人目の私の名前が思いつかなかったので、わたしはこの文章を草稿としてここに残しておくことにしました。

 

草稿 A.3

草稿 A.3をここへ記すには、余白があまりにも広大すぎて(なにせこのマシンのメモリが許す限りの余白がここには存在するのだ!)、私は気が遠くなってしまった。ゆえに私は、それを断念せざるを得なかったのだ。

29 June 2013

夢を見ていて不思議に思うのは、自分の裡で見ているはずの夢に、時おり自分の外にある考えが現れることだ。たとえば自分の小説に対する批判、それも自分が思いもしなかった、それも言われて納得するようなまっとうな意見が夢のなかで展開されたとき、僕は夢に対する驚嘆の念を新たにする。

三島由紀夫『岬にての物語』より「椅子」

面白かったのでメモを残しておきます。 

岬にての物語 (新潮文庫 (み-3-26))

岬にての物語 (新潮文庫 (み-3-26))

  • 3点リーダの連続を境に、ひっくり返る。前半は母親の悲劇と、健気な息子の献身。後半はそれを覆す、息子と看護婦との情事と快楽が描かれている。前半は母親の悲しみを丁寧に描写し、大衆受けする、お涙頂戴な展開になっている。こうした大衆小説的な、読者の共感をひき出す部分から打って変わって、後半部分では、そうした母親の悲しみや息子への愛が、まったく的外れで自己中心的なものに過ぎないということが白日の元にさらされる。

  • 本短篇に通底するテーマを一言で表すと、「愛」と「呻吟の快楽」の2点となる。一点目は、本文中でも語られているとおり、愛=解釈であり、自己中心的なものに過ぎないという考えである。母親が観ていた息子の悲しみは、当時の息子本人からすれば未だ気づいていない感情であり、そのとき本人はまったく悲しみ何ぞ感じておらず、むしろ悲しみの中にある自分自身に対してナルシスティックな、マゾヒスティックな快楽を見出していた。この母親の愛(息子の悲しみをかなしむこと)と息子の快楽との間の齟齬を、前半部分と後半部分において、理路整然と書き分けることによって、この小説の物語としての面白さを損なうことなく、愛の自己中心性を描き出しているという点で、この短篇は極めてすぐれている。

  • 2点目の「呻吟の快楽」だけれど、これについては、こうしたナルシスティックな感情があるということを、理路整然と描き切ること自体に価値があると言える。この「呻吟の快楽」という概念によって、本作最終行における「母親が籐の椅子から見ていたのは自分自身の悲しみだった」という一文が導かれることとなる。

  • タイトルとなっている「椅子」だが、本作では3つの椅子が登場する。
    1. 母親の座る籐の椅子
    2. 息子の座る看護婦の膝
    3. 写真館の椅子
  • 上記2点については、母親と息子の愛の齟齬を象徴するものとして、すぐれたモチーフとなっている。
  • 写真館に椅子を登場させたことについては、母親が写真館のエピソードを手記に書かなかったという事実に重きを置くためのことと思われる。母親が写真館のエピソードを書かなかったのは、彼女が写真館で息子の悲しみを解き放たんと一瞬決意したものの、結局その決意を曲げて、祖母の待つ家に帰ってしまったということに後ろめたさを感じていたためと考えられる。とりもなおさず、母親は自分と息子の悲しみを解き放つことよりも、現状を維持し、呻吟の快楽を継続することを選んだのである。母親は自分のナルシスティックな快楽のために、息子の悲しみをそのままにすることを選んだのである。そんなエピソードを手記に書けるはずがないのである。

 

Essential Killing

エッセンシャル・キリング [DVD]

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苛烈な映画です。

あらすじとしては、米兵の捕虜となった主人公のアラブ人テロリストが偶然逃亡に成功し、雪に覆われた森の中をたった一人で逃げまくるというお話で、一見して派手な逃亡アクションを思わせるプロットなのだけれど、そのじつ派手な物語なんてものは一切無くて、映像には情け容赦がありません。ここにおいて物語はその役目を追われ、 剥き出しになった出来事がカメラという語り手によって淡々と映し出されていくのみです。

 

主人公のアラブ人には名前がありません。というのも、作中で彼の名前を呼ぶものはどこにもいないし、彼自身が自分の名前を口にすることもないからです。それどころか、彼は作中で一言も喋らないんです。セリフ一切無しで、木の実や蟻を、そして見知らぬ釣り人の釣果や見知らぬ女の乳を貪りながら飢えをしのぎ、白い森の中をただひたすら逃げ回る。そこに物語が入り込む余地はありません。

また、彼を追いかける米兵たちは、「米兵たち」という匿名の集団としてしか登場しません。本作において、本当の意味での登場人物は、おそらく二人しかいないんじゃないでしょうか。つまり主人公と、終盤で主人公を匿う聾唖の女。この二人です。それ以外の人たちは、主人公を苛み、また生き存えさせている冬の過酷な自然環境の一部にすぎません。人間の人間らしさが剥ぎ取られていくこの過程において、やはり物語が入り込む余地はありません。

 

このように、本作には人間の動物的な面が醜く、かつ美しく描かれています。その圧倒的な描写を前にして、物語はあまりに無力です。

だから、この映画における「タリバン兵が米兵から逃げる」という設定は、あくまで単なる設定に過ぎません。これがたとえば「ユダヤ人がドイツ兵から逃げる」だとか、「地球人が宇宙人から逃げる」だとかでも、きっとこの作品の有様は何ら変わることはないでしょう。設定が少し変わったところで、この映画の本体がまさしく映像そのものである以上、たいした違いは出てこないはずです。

さっき「本作には人間の動物的な面が描かれている」と書きました。そもそも本作のタイトルである『Essential Killing』=「必然の殺人」とは、自然の規範にしたがって行なわれる殺し、すなわち動物が純粋にみずからの生存のために他者を殺す行為を意味します。それは、人間が恨みなどの感情によって他者を殺したり、大義のために敵を殺したりする行為とは違います。恨みや大義というのは、人間の社会的な活動の所産であり、言うなれば《人間の社会的な面》であります。これに対して、Essential Killingは《人間の動物的な面》を象徴しているのです。

この人間の動物的な面が極限まで高まるシーンがありました。おっぱいを吸いにいくシーンです。森の中で赤ちゃんに乳を飲ませている母親を見つけた主人公が、飢えで朦朧とする意識のなかで、その母親を押し倒し、乳を吸う。母親は失神。節々に数瞬カットインする、タリバン兵時代の回想と、自分の家族の姿。主人公は母乳だらけの口を拭きもせずにその場を離れ、森のなかで悲しみに暮れてひざまずき、そのままフェードアウト。壮絶です。蟻の巣を見つけて掘り返し、蟻を喰いまくるシーンも大概でしたが、このおっぱいを吸うシーンは度を越えて苛烈でした。

 

そんなわけだから、私ははじめのうち、この映画は《人間の動物的な面》への賛歌であるのだと思いました。過酷な自然のなかを逃げ回り、次第にタリバン兵としての大義も、人間としての尊厳も剥ぎ取られていく主人公。主人公から社会性が失われていく過程を、かくも美しい雪の風景のなかで描いているわけですからね。人間が純粋に社会的な存在だと思って行動するといろいろよくないことが起こるので、だから人間が結局のところ動物にすぎないという事実をまざまざと見せているのかと、はじめは思った。

しかしすぐにそれは違うと思い直しました。そのきっかけは、本作に登場するもう一人の登場人物である、聾唖の女です。彼女は血だらけで倒れ伏した主人公を、米兵の目を欺いて家に匿います。もともと喋らない主人公と、こちらは聾唖の女なので、当然二人の間に言葉はありません。けれど、なにも言わずに介抱する女と、なにもせず、なにも言わずに立ち去る主人公の姿に、研ぎ澄まされた人間の社会的な面が突如としてあらわれます。それは矜恃です。矜恃という言葉で呼ばれる、人間が自然の法則以外で従うべき規範の姿なのです。

だから、これは《人間の社会的な面》への賛歌です。いまある人間の社会的な面を丁寧に剥ぎ取り、動物的な存在としての人間をあるがままに描くことによって、結果として社会的な存在たる人間が従うべき規範を取り戻そうとする、無味乾燥とした遠心性の運動。それがこの映画です。女がくれた白馬にしたたる血の赤によって幕が引かれるとき、われわれはその堪え難いうつくしさのなかに、たったひとりで取り残されることになります。

これは苛烈な映画なのです。

筒井康隆『笑うな』収蔵「傷ついたのは誰の心」

笑うな (新潮文庫)

笑うな (新潮文庫)

人間には社会的な側面と動物的な側面がある。人間にある、寝る必要がある、食べなきゃ死ぬ、セックスしたい、こうしたほとんどの動物に共通する欲求や生態が人間の動物的な側面である。では人間の社会的な側面とは? それは言葉によって形成され、ひとびとのなかに共有された、社会構成的な幻想に他ならない。人と人とがコミュニケーションをとること、金でモノを買うこと、言葉で思考すること、すべて人間の社会的な側面であろう。

本作「傷ついたのは誰の心」は、人間の社会的な面が、人間の動物的な面に対して完全に優勢となったときになにがおこるのかを、シニカルに描いた短篇である。帰宅すると新妻が近所の警官に強姦されている。しかし主人公は、警官を引きはがすでも殴るでもなく、いきなり会話を始める。

「警官ともあろう人が、そんなことをしては、いけないのでは、ないですか」

馬鹿げている。だがこれこそが、純粋に社会的な存在たる人間が遵守すべき規範に忠実に則った結果なのではないか。

これはSFだ。思い出すのは伊藤計劃の『ハーモニー』である。人間の動物的な面を執拗に覆い隠した末に出来上がる歪な福祉社会。その萌芽がこれだ。強姦する警官の言い分も、はっきりと論理が一貫している。《新妻が美しいので私は彼女が欲しい、だから押し倒した》という論理である。強姦という動物的な行為さえ、その論理の中へ穏当に組み込まれてしまっている。警官の行動はその全てに理由があり、言葉によって説明されうる。動物らしさは皆無である。この警官は、言葉に従って生きているのだ。警官は権威の象徴なのであって、だから本作において警官は、人間の社会的な側面の象徴となっているはずである。

その警官が、じつはもっとも繊細な心の持ち主であったことが、本作の結末を導く。彼の傷つきやすい心はなにを意味しているのか。傷つきやすい心が引き起こした悲劇さえもが、味気のない言葉として文章化されることによって、心の作用をも社会的なものとしてその論理のメカニズムに組み込もうとしているのだろうか。

不気味な味わい。

Self-Reference ENGINEについて

むかしの文章をサルベージしたので晒します。
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本書の究極的語り手、自己参照機関=Self-Reference ENGINEとはいったい何者なのか問題。

この疑問を解消するためのヒントは主に「tome」「エピローグ Self-Reference ENGINE」にあると思われます。たとえばエピローグには以下の自己紹介文が綴られています。

私の名はSelf-Reference ENGINE。全てを語らないために、あらかじめ設計されなかった、もとより存在していない構造物。(中略)私は完全に機械的に、完全に決定論的に作動していて、完全に存在していない。それとも、Nemo ex machina。機械仕掛けの無。\footnote{本書359-360頁}

これを読んで思い出すのが「tome」において語られた自己消失オートマトンのお話です。
この自己消失オートマトンというのがまた多分に矛盾を孕んだ存在で、このオートマトンは《存在しない》ことを目的として駆動しているものの、その目的のために手段を行使する当のオートマトン自体は、すでに存在してしまってるんですね。
だから、真に《存在しない》ためには、たえず自分をとりまく世界を書き換え、ありうべきもの全てから逃がれ続ける必要があります。《存在しない》ために、自分のみによって参照され続ける機関、ついに完成された自己消失オートマトン、それが機械仕掛けの無であり、Self-Reference ENGINEなのでしょう。

ここでぼくがふと考えるのは、Self-Reference ENGINEとは物語の究極の語り手として設計された小説機関なのではないかということです。
というのも、ふつうわれわれが物語を語ろうとしたとき、語られるべき物語によって、語るべきわれわれが影響を受け、語られるべき物語にその影響がフィードバックされると言うことが起こりますね。これは円城塔がかつて研究員時代に追っていた、オペレータとオペランドの分離不可能性の構造にとても似通っています。
あるいはSelf-Reference ENGINEは、オペランドから分離された理想的なオペレータとして設計されたのでしょう。
Self-Reference ENGINEは誰にも観測されず、参照もされず、ただ自分だけが自分を観測し、参照する存在です。彼はどこでもないどこか、すべての観測者から隔絶された時空間上を漂いながら、この物語を綴っています。
法則を支配する法則から独立した法則として、いや、むしろそれ自身でSelf-Consistentに完結した無欠の法則として、完全な一個の語り手として、Self-Reference ENGINEはつくられたのではないでしょうか。