神の視点
botに救いを求めるしかないのか。
すーぱーそに子の詩学
机の上に万年筆 のインクが載っている。ラベルにtsuki-yoと書かれており、それはおそらく月夜と当てるのが正しい。フタが開きっぱなしになっており、中でインクの 固化がはじまっている。インク瓶の隣にミュッシャの『月』が立て掛けられている。高さ30cm程度の額に収まる『月』の目線は優しげだ。その視線の先に A4サイズの紙がある。紙は『野生の蜜』を重しにして広がっている。風が部屋の中に入ってくるから、重しがないと飛んでいってしまうのだ。青黒い月夜のインクが、紙上でなにかを語っている。
掘り出された悲しみ。ディスプレイのうつろな反射。電源が入ったスピーカーが沈黙するホワイトノイズ。すべては机上にある。机上で繰り広げられている。
机から目を外すことが君にはできない。かわりにぼくが観よう。机を離れて、本棚をなめるように移動し(前日島、百年の孤独、エコー・メイカー、魔女狩り、 逆光《上》)、ベージュのカーペットを越えて、視線が靴をとらえる。窓の前にそろえられた一足の靴。小さな靴。赤い、ヒールのついた靴。
8月の昼下がり、腐臭が漂ってくる。その冷ややかな熱のために、地表から君がいる4階までまで漂ってくる。それはすーぱーそに子の詩学についての来るべき書物だ。
抽象絵画を観賞するとき
「抽象絵画を観賞するとき、そこに描かれているモチーフがなんなのかぼくにはわからない。にもかかわらず、その絵を観ていると快楽を感じることがある。"ある種の小説"を読んでいるときの感覚はこれに近い。
ある文章やある色彩の組み合わせを受容したときに、受容者の頭の中で不随意に展開される快楽がある。ぼくが知らないというだけで、こうした快楽が生成する論理が人間の頭の中にはある。"ある種の小説"は、言葉の意味の論理や物語の論理にしたがっているのではなく、こうした不随意の快楽の論理に従って書かれているのではないか。これは小説というよりも、むしろ詩や短歌などの韻文の快楽に通じる。こうした読み方を可能にするのは、物語や言葉から歴史を取り去ること。そして言葉の意味をぬぐい去り、再定義することだと考える。このようにして再定義された言葉を受け取ることは、抽象絵画で真新しい色や形の組み合わせを観たときのような驚きと興奮を読者に与える。
普通の物語は、読者がそれまでに知っている物語に支えられて成立している。それまでに知っている物語の差分で理解される。でも"ある種の小説"はそうじゃない。というのも、この小説にかかれている出来事が読者の現実の世界からあまりにかけ離れているからこう思うのだろう。たとえばSF は現実の科学や技術の延長線上に乗るようなアイデアが登場するけれど、"ある種の小説"はそうじゃない。ではファンタジーと呼べるかと考えると、それも違う気がする。なぜなら、ファンタジーの文脈と関係が薄いからだ。一般的なファンタジーは、ファンタジーが発明・発見した概念に支えられて成立している。だが"ある種の小説"は、ぼくが知っているどんなファンタジーとも関係が薄い気がする。
"ある種の小説"に書かれている言葉は、読者の現実の世界で使われている言葉と関係が薄い。言葉が独立しているとも言える。"ある種の小説"に書かれた言葉を読んだ瞬間、その言葉はなんのよりどころもなく、何にも支えられずに、荒唐無稽で観たこともない世界を構築する。これは、詩における言葉の用法だと思う。この独立した言葉によって、その言葉の意味が再定義されるのである。」
さあ、きみも"ある種の小説"に任意の幻想小説のタイトルを入れて読書感想文を完成させよう!
野崎まど『2』
読みました。面白かったです。
読むときはちゃんと[映]アムリタ (メディアワークス文庫)、舞面真面とお面の女 (メディアワークス文庫)、死なない生徒殺人事件―識別組子とさまよえる不死 (メディアワークス文庫)、小説家の作り方 (メディアワークス文庫)、パーフェクトフレンド (メディアワークス文庫)を全部読んでから読みましょう。
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人間はなぜ創作するのか。この命題に対して『2』が語った理屈と、ぼくが思ったことをまとめておきます。
まず定義を出して、そこから話をはじめよう。
1. 創作とは、神に接近するためにおこなわれる
古来、芸術は神に捧げられるものだった。真に優れた芸術的パフォーマンスに対して、われわれは「神懸かっている」や「神が降りた」と表現してきた。商業的な目的を度外視したときに、「創作は神に接近するためにおこなわれる」という定義は、それほど的を外していないように思われる。
この神は、必ずしも宗教を意図していない。ふつう、人は自分の手に負えないものに関する責任の所在を神に求めたがる。古代、人知を越えた自然現象に対して、めいめいの神があてがわれ、信仰されてきた。同様に、創作されたものを受けて美しいだとか、面白いだとか感じる意味やメカニズムについて、人類はまだ答えを持っていない。だから、その遥かな延長線上に神を望んでいるのだと言って違和感はない。『2』の到達点にも神がいて、でもそれはどうやら到達点ではなかった。
また、この定義だけを考えると、創作されたものは神に捧げられることになるので、それを受容する人間がいなくても成立するように思われる。しかしこの神というのはめいめいの作者の内に抱えられているものなのであって、それは言うなれば仮想読者なのだから、この定義によってもやはり受容者がなければ創作は成立しないように思われる。
次にもう1つ、創作の目的についての理屈が出てくる。
2. 創作とは、人の心を動かすためにおこなわれる
この定義は、われわれの直感に最も親しみやすいように思われる。
最原最早は「全ての創作は人の心を動かすためにある」と言い、また同じ口で「愛とは、人と関係したいと思う欲求」だと言う。だから彼女は、創作とは愛であると断じる。
あとは、目的とは逆方向の理屈が出てくる。
3. 創作とは、人類が適者生存の過程で獲得した行動である
目的というのは人間の精神から生まれるものであって、これは人間の社会的な面を反映している。これに対してこの定義は、人間の動物的な面を反映している。
人間の行動をミームで捉えたときに自ずと生じる考えだが、『2』ではこれがうまくクライマックスを補強している。
ロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』
ここ最近読んだSF小説で一番面白かったです。
藤井光の訳書にいまのところはずれなし。
劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語
『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』を観たので、その感想をまとめておきます。
テレビシリーズのこと
テレビシリーズの最後で概念化した鹿目まどかについて、当時ぼくが考えたことは以下のようなことでした。
- 鹿目まどかの犠牲によって新しい世界ができる過程が美しすぎること。ぼくはあの結末が、不当に美しいと感じた。たしかに魔法少女たちのユートピアが完成し、物語はハッピーエンドを迎えた。しかし、あの鹿目まどかの人間離れした決断はどこからやってきたのか。そもそも一話から鹿目まどかに人間らしいところなんてあっただろうか、という疑いさえ浮かんでくる。鹿目まどかは本当に人間なのか? 少女の殻を被った真空に過ぎないのではないか? そして一方で、そんな鹿目まどかを思い続ける暁美ほむらの人間臭さときたらどうだろうか。二人は対極に置かれているように思える。
- 暁美ほむらは概念となった鹿目まどかを想い続ける。概念はいつも心の中にあって、たとえ会えなくても一緒にいるのだと信じて魔獣との戦いをつづける。暁美ほむらはきっと、自分には見えなくても、鹿目まどかはいつも自分を見ていると感じているのだろう。宗教家が神を信じるようにして、暁美ほむらは鹿目まどかを信じているのだろう。暁美ほむらはふたたび孤独になったけれど、しかし同時に救われてもいると感じる。鹿目まどかを心に住まわせることが、暁美ほむらがたどり着いた"愛"の形なのだろう。
テレビシリーズを観終わって、ぼくは自分が暁美ほむらの視点に立って物語に接していたことに気付いたのでした。そして今回公開された『叛逆の物語』についても、この姿勢は変わりませんでした。
『叛逆の物語』を観て、ぼくは『魔法少女まどかマギカ』が完成したのだと思いました。テレビシリーズで受けた違和感が氷解したからです。
どうしてそう感じたのかを言語化したいと思って、以下の文章を書きます。
暁美ほむらの信仰の破綻
さっき「宗教家が神を信じるようにして、暁美ほむらは鹿目まどかを信じた」と書きましたが、『叛逆の物語』は、この暁美ほむらの信仰が破れてしまったところから始まります。テレビシリーズの最後で鹿目まどかを心の中に住まわせ闘いの中に身を投じた暁美ほむらだったけれど、結局、その信仰に似た形の愛は破れ、彼女は魔女になったのです。
『叛逆の物語』がクライマックスに差しかかったところで、われわれは暁美ほむらの中に、テレビシリーズとはまったく異なった、別の形の愛が育っていたことを知ります。この、クライマックスで暁美ほむらがインキュベーターに対して叫んだ愛こそが、ぼくがテレビシリーズに対して抱いていた違和感を消し去ってくれたのだと思います。
「愛」という言葉にはたくさんの意味がありますね。たとえば、元々あった仏教的な意味の愛に加えて、キリスト教的な意味の愛が上書きされたという事情があります。
キリスト教が本格的に結婚式を乗っ取る明治以前の「愛」の意味は、欲望や迷いの根源としての意味が強かったといいます。
これはトリビアですが、戦国武将の直江兼続の兜に掲げられた「愛」の文字は、仏教の愛染明王から取られているそうです。きっと上杉謙信の兜が毘沙門天の「毘」だったのをまねて、世紀末ダークヒーローでも目指していたのでしょう。
仏教的な愛も、キリスト教的な愛も、どちらも「愛」には違いありません。暁美ほむらが劇中で云った愛にも、彼女の意図する意味があるはずです。
美しい世界への叛逆
信仰破れた暁美ほむらの変容した愛がもたらしたのは、美しい世界のシステム(円環の理)の破壊であり、美しいファンタジーの破壊でした。美しいファンタジーは、暁美ほむらを救えなかったからです。
劇中でインキュベーターが暁美ほむらに提案した救いは、奇しくも円環の理そのものでした。円環の理に導かれて魔法少女が救われるシステム。しかし、暁美ほむらはこのシステムに救われることを拒んだのです。99%の魔法少女たちが幸せになる理を、残りの1%である暁美ほむらが破壊します。
円環の理はユートピアでした。暁美ほむらはユートピアを破壊したのです。
このおそろしい叛逆を前にして、われわれははじめ言葉を失うか、なんてことしやがるこのクソレズサイコ野郎! と罵ることしかできません。
しかし場面が進むにつれて、この暁美ほむらのおそろしい選択が、彼女の愛が、ユートピアでは充足されえないことの絶望を反映しているのだと思いあたります。
ここに至ってわれわれは気付きます。高度に完成された自由や幸福は、行きすぎた制限や理不尽と区別が付かないのだということに。
暁美ほむらは鹿目まどかによるユートピアの犠牲者だったのでしょう。
暁美ほむらは愛のゆえに悪魔となって、鹿目まどかの理を書き換えましたが、ぼくにはこの様相が、いとおしくて堪らないのです。
このむせ返るような人間くささに、あてられてしまったのかもしれません。
鹿目まどかの愛と、暁美ほむらの愛
『叛逆の物語』の最後で、暁美ほむらは概念化した鹿目まどかのうち、人の部分だけを抽出して自分のそばに置きましたね。この行為は、自らの愛の対象を偶像化したい欲望の発露であったと思うのです。
テレビシリーズの最後で信仰を手にした暁美ほむらは、偶像を欲しませんでした。その愛が偶像を要求しなかったからです。
しかし、悪魔となった暁美ほむらは偶像を欲しました。これは彼女の欲望の現れで、彼女の熱狂的な愛が、それを欲したのです。
暁美ほむらの愛がこのように熱狂的であるのに対して、鹿目まどかの愛は、まったく正反対の形をしているように思えます。
鹿目まどかの愛は、無差別の愛なんじゃないか、というのが、テレビシリーズから通してのぼくの感覚です。彼女にとって対象の区別はないんじゃないか。
あれほど熱烈に彼女を愛する暁美ほむらに対する愛と、マミさんやさやかちゃんに対する愛は、同じくらいの重さであるように思えてしまいました。
もしかして鹿目まどかの愛は、自分を愛するようにして隣人を愛するものの愛なのではないか。もし暁美ほむらの愛を、人間的な愛と呼ぶのであれば、鹿目まどかの愛は、神の愛なのではないか。
だからぼくは『叛逆の物語』は、暁美ほむらの信仰が破れ、結果として神が死ぬ物語なのだと思えて仕方がありません。
神の不在の中で暁美ほむらは、己の罪深い愛と向き合いながら、戦いを続けていくのです。
たとえ全ての魔法少女たちを敵に回すことになっても、暁美ほむらが人間である限り、自分の愛を裏切ることはできないのです。
カウボーイ・ビバップを初めて最後まで観ました
物語の有様と、そこから伝わるメッセージとは独立していることを自覚しながら以下を記します。
- スパイクは自分が一度死んだのだと言う。それならば、カウボーイ・ビバップとは一度敗れて死んだその後を生き続ける、あるいは死に続ける人間の姿を描き続けていたのだ。そんなスパイクが最後に引用した物語は100万回生きたねこであった。この引用を真に受けるなら、スパイクは自分の死に場所を探し続けていたということになる。
- だが、ジュリアは「これは夢ね」と言って死ぬ。「ああ、悪い夢さ」とスパイクは言う。ここでメッセージが反転する。つまり、二人は自らの死を虚構だと言ってのける。人生に敗れて一度死に、そのあと自分が生きているのか死んでいるのか判然とせず死に場所を探し続けた二人が、いや三人が、最後にたどり着いた結論がこれである。すなわち、彼らは死にたくても死ねないのである。華々しい、望みに叶う死は虚構に過ぎず、実際は泥臭く生きていくことしか出来ないと言っているのだ。カフカもこう書いている「われわれの救いは死である、しかし、この死ではない」。スパイクとジュリア、そしてヴィシャスが死に場所を見つけたことが偽りであると、セリフは暗に示している。美しい、人生の目的になりうる死がありえないということを、彼らは自分たちの美しすぎる死に様をもって体現したのである。
- カウボーイ・ビバップは希望だったのか、それとも絶望だったのか。もちろん両方である。