鳰のような形をした僕の迂回路

My detour/diversion like a (little) grebe.

筒井康隆『笑うな』収蔵「傷ついたのは誰の心」

笑うな (新潮文庫)

笑うな (新潮文庫)

人間には社会的な側面と動物的な側面がある。人間にある、寝る必要がある、食べなきゃ死ぬ、セックスしたい、こうしたほとんどの動物に共通する欲求や生態が人間の動物的な側面である。では人間の社会的な側面とは? それは言葉によって形成され、ひとびとのなかに共有された、社会構成的な幻想に他ならない。人と人とがコミュニケーションをとること、金でモノを買うこと、言葉で思考すること、すべて人間の社会的な側面であろう。

本作「傷ついたのは誰の心」は、人間の社会的な面が、人間の動物的な面に対して完全に優勢となったときになにがおこるのかを、シニカルに描いた短篇である。帰宅すると新妻が近所の警官に強姦されている。しかし主人公は、警官を引きはがすでも殴るでもなく、いきなり会話を始める。

「警官ともあろう人が、そんなことをしては、いけないのでは、ないですか」

馬鹿げている。だがこれこそが、純粋に社会的な存在たる人間が遵守すべき規範に忠実に則った結果なのではないか。

これはSFだ。思い出すのは伊藤計劃の『ハーモニー』である。人間の動物的な面を執拗に覆い隠した末に出来上がる歪な福祉社会。その萌芽がこれだ。強姦する警官の言い分も、はっきりと論理が一貫している。《新妻が美しいので私は彼女が欲しい、だから押し倒した》という論理である。強姦という動物的な行為さえ、その論理の中へ穏当に組み込まれてしまっている。警官の行動はその全てに理由があり、言葉によって説明されうる。動物らしさは皆無である。この警官は、言葉に従って生きているのだ。警官は権威の象徴なのであって、だから本作において警官は、人間の社会的な側面の象徴となっているはずである。

その警官が、じつはもっとも繊細な心の持ち主であったことが、本作の結末を導く。彼の傷つきやすい心はなにを意味しているのか。傷つきやすい心が引き起こした悲劇さえもが、味気のない言葉として文章化されることによって、心の作用をも社会的なものとしてその論理のメカニズムに組み込もうとしているのだろうか。

不気味な味わい。

Self-Reference ENGINEについて

むかしの文章をサルベージしたので晒します。
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本書の究極的語り手、自己参照機関=Self-Reference ENGINEとはいったい何者なのか問題。

この疑問を解消するためのヒントは主に「tome」「エピローグ Self-Reference ENGINE」にあると思われます。たとえばエピローグには以下の自己紹介文が綴られています。

私の名はSelf-Reference ENGINE。全てを語らないために、あらかじめ設計されなかった、もとより存在していない構造物。(中略)私は完全に機械的に、完全に決定論的に作動していて、完全に存在していない。それとも、Nemo ex machina。機械仕掛けの無。\footnote{本書359-360頁}

これを読んで思い出すのが「tome」において語られた自己消失オートマトンのお話です。
この自己消失オートマトンというのがまた多分に矛盾を孕んだ存在で、このオートマトンは《存在しない》ことを目的として駆動しているものの、その目的のために手段を行使する当のオートマトン自体は、すでに存在してしまってるんですね。
だから、真に《存在しない》ためには、たえず自分をとりまく世界を書き換え、ありうべきもの全てから逃がれ続ける必要があります。《存在しない》ために、自分のみによって参照され続ける機関、ついに完成された自己消失オートマトン、それが機械仕掛けの無であり、Self-Reference ENGINEなのでしょう。

ここでぼくがふと考えるのは、Self-Reference ENGINEとは物語の究極の語り手として設計された小説機関なのではないかということです。
というのも、ふつうわれわれが物語を語ろうとしたとき、語られるべき物語によって、語るべきわれわれが影響を受け、語られるべき物語にその影響がフィードバックされると言うことが起こりますね。これは円城塔がかつて研究員時代に追っていた、オペレータとオペランドの分離不可能性の構造にとても似通っています。
あるいはSelf-Reference ENGINEは、オペランドから分離された理想的なオペレータとして設計されたのでしょう。
Self-Reference ENGINEは誰にも観測されず、参照もされず、ただ自分だけが自分を観測し、参照する存在です。彼はどこでもないどこか、すべての観測者から隔絶された時空間上を漂いながら、この物語を綴っています。
法則を支配する法則から独立した法則として、いや、むしろそれ自身でSelf-Consistentに完結した無欠の法則として、完全な一個の語り手として、Self-Reference ENGINEはつくられたのではないでしょうか。

サルバドール・プラセンシア『紙の民』

紙の民

紙の民

最初に創られることになったのが彼女であった。段ボールの両足、セロファンの盲腸、そして紙の乳房。男のあばら骨からではなく、紙のかけらから創られた。そこにいたのはピションとギホンの川を分かつ全能の神などではなく、二度にわたり引退した、切り傷だらけの指を持つ老人であった。 ―― 本書プロローグより

彼によれば、それは自由意思のための戦い、悲しみの商品化に抵抗する戦いだった。「俺たちにもう用意された運命に対する戦争なんだ」と彼は言った。
俺たちの運命を決めてるってのは誰なんだ,と俺は訊いた。フェデリコ・デ・ラ・フェは首を振って,はっきりとはわからないと言った。彼に言えるのは,それは空にいる何かか誰かで,姿を隠して,土星の軌道からのうのうと俺たちを見下ろしているということだった。 ―― 本書pp.58-59より

メキシコから国境を越えてカリフォルニアの町エルモンテにやってきた父と娘の頭上には、登場人物たちを上空から見下ろす作者=《土星》の眼があった。紙で創られた女の子からはじまる、奇抜で繊細な物語。

だいぶ前に読んですごく楽しんだのですが、そう言えば紹介してなかったなと思ったので、このまえ書いたレジュメから一部を以下に抜粋します。

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土星戦争について

本書の奇抜さというのは、この本の作者=《土星》とこの本の登場人物たちがまさにこの本のページの上で抗争を繰り広げるという、いささか倒錯的な物語の構造に由来する。そしてその倒錯した物語が、ユニークな登場人物たちと《土星》とによって同時多発的に、多声的*1に語られるのである。読者の混乱はいよいよ窮まるところを知らない。

土星について

虚構に対して強権を振るう作者=《土星》も現実では無力である。だから《土星》は自らを取り巻く現実を虚構として取り込み、それによって他ならぬこの現実を変えられるのだと信じた。かくしておこった土星戦争によって、《土星》は自らを虚構の中へ組み込むことに成功し、現実と虚構は渾然一体となる。もはや、我々にとって明確なるもの、信頼できるものの一切が失われてしまうことになるだろう。ここまで読み進めたとき、ぼくはふとゴダールの『気狂いピエロ』にこんなセリフがあったことを思い出した。

人生と物語が違うのは悲しいわ。同じだといいのに。明解で論理的で整っていてほしい。でも違うわ。

ぼくが思うに『紙の民』とは、「明解でなく論理的でなく整っていない物語」を書くことによって「明解で論理的で整っている現実」を作り上げようとした男の物語なのだ。

*1:カルヴィーノが『新たな千年紀のための六つのメモ』の「多様性」の項で挙げていた、多次元的なテクストの特徴。すなわち、様々なレベルでの解釈が可能となる首尾一貫したテクストの特徴であり、これは思考する自我の単一性に変わって、主体や声や世界に注がれるまなざしの多様性を表している

神林長平『言壺』

言壺 (ハヤカワ文庫JA)

言壺 (ハヤカワ文庫JA)


読書会のために書いたレジュメから一部掲載します。

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DISCUSSION

『言壺』について個人的に考えていることをまとめておきます.

言葉と精神

『言壺』にみられる「言語」に対する執拗なこだわりは,人間の精神と言語とが切っても切り離せないという点に端を発しています.以下に本文を引用しながら参照してみましょう.

そもそも『言壺』のSOW(sense of wonder)は,「言葉」が人間の精神に対して流入し,大きな影響を与えるという点にあると思います.このことは『私を生んだのは姉だった』の一文ではじまる「綺文」において,さっそく以下のように示唆されています.

おれが書きたいのは,そういうことじゃないんだ.姉と母親の遺伝子を混ぜ合わせたんじゃなく,言葉どおり,文字どおり,『私を生んだのは姉だった』という文章,そういう言語空間なんだ.異次元の言語世界なんだ.おれたちの通常の言語空間で理解しようとすると,こちらの言語空間が崩壊していくような,その気分にさせる,小説なんだ.ちゃんと読むことはできる,現実世界ともよく似ている,が,単語一つが異質なために,理解しようとすると,頭の中の言語中枢が役に立たなくなる,そういうものだ.

さらに,こうも書かれています.

そのつもりはなくても,言葉を連ねているうちに本当だと思えてくることもある.いや,常に,そうなんだ.言葉が現実を構築していくんだ.ルールに従って,だ.おれはそのルールそのものに干渉して,それを証明してやりたいんだ.おれの文を受け入れる人間は,現実がいかに危うく変化するものかを体験するだろう.(ワーカムが)再構築するか,狂うか,どっちかだとおまえは言ったな(中略)人間もだ.

つまり『私を生んだのは姉だった』という一文を読んだ瞬間,読者の意識,つまり人間が世界を認識する様式そのものが変わってしまうということを解良は示唆しています.これは突飛な空想であるようにも思えますが,実はそうでもありません.というのも,そもそも「言葉」と人間の「意識」というのは,鶏が先か卵が先かという関係にあって,どちらか一方がどちらか一方に従属するという形にはなっていないからです.このことは神林長平が長年書きつづけてきたことでもあります.人間の精神なくして言葉はなく,言葉なくして人間の精神は存在しえないのです.精神が言葉を形成するのと同じように,言葉も精神を形成するのです.

では,言葉が人間の精神を形成するというのはどういうことなのでしょうか.これについて理解するためには,本文中に繰り返し現れる「自走する言葉」のイメージをつかうのが良いでしょう.以下は「似負文」からの引用です.

シチュエーションを前段できちんと組み上げておく.そうして読者の頭の中に言葉で世界を構築する準備をさせる.言ってみれば設計図であり,骨組みであり,核になるものだ.

それから,一語を書く.それを読んだ途端,読者の頭で,用意されていた核を中心にして世界が自動的にでき上がってゆくのだ.先を読まなくても.だから,その一語の先は何もない.空白だ.しかし読み手はイメージが膨らんでゆくのを感じている.もはや言葉ではない.脳のイメージ駆動装置が,自身の意識とは独立して自走する……

ソシュールの記号論にならって書けば,「記号のシステムはその内的な論理に支配されている」ということです.言葉とは一種の記号であり,その記号の体系は,基本的にわたしたちの現実の出来事からは無関係に存在しているということを言っています.言語の使用が内なる論理によってのみ決められているということは,わたしたちにとっての「意味」は,言語の外の世界から独立したものと言えます.つまり,ある単語や言い回しは,「世界がどのようにあるか」ということとは無関係に,ほかの単語やフレーズとの関係からのみ,その意味を与えられるということになります.それぞれの言葉同士の関係によって作られるネットワークとして構成される言語空間,すなわち「言葉の総体」というのは,現実やわたしたちの精神の下に従属しているわけではない.だから言葉は自走するのです.わたしたちが認識する現実とはてんで無関係に存在するのです.そしてわたしたちは現実を表現するときに,この現実とは本質的に無関係である「言葉」を使用せざるを得ません.わたしたちは言葉を使っていると同時に,言葉によって支配されているとも言えるでしょう.

このように,わたしたちの認識が「言葉」による侵入を受け,「言葉」による支配を受けることによって生じる極端な事象の数々が,『言壺』のなかには書かれています.そしてこうした極端な事象は,つねにワーカムをはじめとした高度に発達した技術によって導かれています.だから,これが『言壺』のSFたる所以なのです.

個人的幻想と社会的幻想

『言壺』には,前節で述べたような,わたしたちの「精神」と,自律する「言葉」との対立という一つの軸がありました.しかし本書に見られる対立軸は実はもう1つあって,それは「個人的な幻想」と「社会的な幻想」との対立です.本節ではこれについて少しみていきましょう.

さて,以下の文章は「被援文」から引用したもので,ここにはワーカムがある仮想世界をつくりだしているのだと書かれています.

人間は言葉を持ったときから自然界とは切り離された仮想空間で生きる生物となったのだが,ワーカムの出現は,そこにまた新しい仮想空間を付け加える結果となった.世界がそれで変わったと感じるのは正しい.事実,変わったのだ.手書きで書いていると,それがよくわかる.こうしていると一時的にわたしは現実から,ワーカムの支配している仮想世界というそれから,逃れられている,と言う気がする.だが,完全ではない.ワーカムを使いたくて仕方がないのだ.

この仮想世界っていったいなんのことでしょうか.前節で見たような「言葉の世界」のことでしょうか.しかし「言葉の世界」は,ワーカムが登場するよりはるか昔から存在していたはずです.

ここで,ワーカムによってつくられる仮想世界のことを「社会的幻想」と名付けましょう.この「社会的幻想」について説明するために,本文から以下に引用するVRとニューロネットワークとの関係についての記述がとても役に立ちます.

いま思うと,VRがすたれたのはワーカムの出現があったからに違いない.ワーカムは,できの良くないVRが映像や音を人間の脳に入力するよりも,もっと強力かつ確実に人に仮想世界を与えることができる.個人的な幻想を,しかもニューロネットワークで社会的な幻想空間に違和感なく接続するのだ.VR技術がどんなにあのまま進化したところで,言語で仮想を構築するワーカムが生んでいるこの状態を実現するのは不可能だったに違いないのだ.

ここで言うVRとは,現実そっくりの仮想世界を人の脳に直接送り込むもので,だからその仮想現実は個人の頭の中にとどまっています.それに対して,ワーカムによってつくられる仮想世界というのは個人の幻想にとどまらず,社会全体への広がりを持っています.それは前節で見た,独立した「言葉の世界」を経由して社会全体に広がる幻想であり,わたしはこれを社会的幻想と呼んでいるわけです.

社会的幻想はなにもワーカムによってのみ作られるものではなく,現代のわたしたちの生活の中にもあって,それは本書でも例として出されていたけれど,例えば貨幣制度や,人間によって作られたその他の不文律などは全てこの社会的幻想に含まれるのだと思います.なにせそれは,現実世界に生きている人間以外の生物からすればまさしく幻想に過ぎないのですから.そしてワーカムの恐ろしさは,そうしたわたしたちが構築してきた社会的幻想に侵入し,変形し,破壊してしまう点にあります.そして,そうした危うさから人類を守るための管理社会が,まさしく「栽培文」で描かれていた世界だったというわけです.

わたしが思うに,ワーカムがつくりだした仮想世界というのは,わたしたちの頭の中にある個人的幻想と,わたしたちが共有している現実という社会的幻想とが混ざることによって構成された世界なのではないでしょうか.つまりワーカムは,個人的幻想と社会的幻想をうまく接続する装置であるというわけです.だから,ワーカムによって構成された「擬験」は,VRとは違います.それは社会的幻想であって,ゆえに擬験は外側に開いていて,実際に世界を変えてしまうものです.個人のなか(VR)にではなく,ニューロネットワークの関係性の中にわたしたちは強制的に参加させられて,現実と虚構の境目がどんどんあいまいになっていくわけです.それは「戯文」にみられたような,何が現実で何が虚構なのかがわからなくなっていくあの感覚です.

要約すると,言語空間は自然から切り離された閉鎖的な仮想空間だと考えられがちでしたが,『言壺』を読むとそうした考えは破壊されてしまいます.言語空間は社会的幻想として現実の世界に開放され,それはわたしたちの関係性のなかに共有されていた社会的な幻想を決定的に変質させてしまいます.だから『私を生んだのは姉だった』という一文は,わたしたちの従来の社会的幻想を死滅させんとして世に放たれたウイルスであり,言語兵器だったのです.円城塔の解説文ではないですが,わたしたちは備える必要があるでしょう.神林文から身を守るために.あるいは,神林文とともに人類へ宣戦を布告するために.


APPENDIX

ちょっとした疑問や思いつきをまとめておきます.

似負文

最後の言葉は何を意味していたんだろう.擬験.

没文

崇がときおり発していた意味不明な言葉はなんだったんだろう.サイメディックの話に出てきた「アクチャー」みたいなアレかな.

乱文

情報エントロピーについて.

言葉は,常にシステムのエントロピーを増大させる存在であるとい,ごく自然な現象を理解できたのだ,人はこの言葉を使って社会というシステムをまとめていく生物であったが,これは相当なエネルギーを費やしてエントロピーを小さくするということなのだが,その道具である言葉自体は常に窒尾を崩壊させる方向に作用するものなのだ,ある言葉を優位に使うにはそのようなエネルギーが必要なのは当然としても,言葉自体がすでに,常に自己をあいまいにしていく作用力を内包しており,仮に原書には一つの言葉しかなかったにせよ,誰もその言葉を使わないとしてもそれは次の瞬間には自己分裂を,自己のシステムのエントロピーを増大する方向へと進化を開始したに違いなく,

情報エントロピーは情報量によって簡単に定義され,
S = \sum_i P_i \log_2 P_i
と表すことができます(ただし[ex:P_i]は事象iのおこる確率).情報エントロピーとは「選択肢の豊富さ」を表す量で,情報エントロピーの増大は不確定さの増大に対応し,それは情報量が減ったことと同義になります,

ちなみにエントロピーとは名付けられていますが,もともとある熱力学的エントロピーとは全く別の概念です.にもかかわらず両者がエントロピーと呼ばれている理由は,2つのエントロピーが同じ形の数式で表現されるという,ただそれだけの理由によります.熱力学的エントロピーSは
S = k \ln W
と表され(ただしkはボルツマン定数,Wは系が取りうる状態の数),これは(1)式の情報エントロピーの定義式と同形です.このように,単に形が似通っているために同じ名前がついているだけなので,情報エントロピーと熱力学的エントロピーとを同一のものとして扱うことは一般にはできません.ただし,熱力学的エントロピーも人間によって認識される情報に他ならないので,熱力学的エントロピーを情報エントロピーとして表すことは可能でしょう.しかし,それでもなお情報エントロピーを熱力学的エントロピーとして表すことは一般にはできません.

碑文

それは樵の娘の森に建てられた碑なのか.あるいは解良による勝利宣言なのか.それとも「言葉」によって自律的に語られた言葉なのか.

暁美ほむらの孤独について

暁美ほむらの孤独

魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)の結末を見届けてテレビの電源を消したとき、わたしたちはある疑問に直面する。「結局、主人公は誰だったのだろう?」という疑問だ。鹿目まどかを主人公として観はじめたはずが、いつしかわたしたちは、暁美ほむらの視点を通して鹿目まどかを眺めている自分自身を発見するのである。この倒錯した2人の主人公という構造は、『まどマギ』について考える上でたいへん重要な意味をもっている。

はじめに『まどマギ』の作品全体の雰囲気を決定づけている「伝わらなさ」について強調しておきたい。全編を通じ、魔法少女たちの想いはすれ違い続ける。けっして伝わらず、報われることもない。たとえば美樹さやかはどうだっただろう。幼なじみの音楽少年である上條の指を治すため、体内から自分の魂を抜きとってまで魔法少女になったさやかの一途な想いは、結局当の上條には伝わらなかった。彼はさやかの想いに応えるどころか、彼女の友人である仁美と付き合いはじめ、美樹さやかは絶望して魔女へと堕落するのである。賢明に彼女を支えようとしていたまどかや杏子の想いも、結局さやかに届くことはなかった。そして「最後に愛と勇気が勝つストーリー」を信じ、かつて美樹さやかだった魔女に立ち向かった佐倉杏子もまた、勝利を得ることなく死を遂げる。そして極めつけは暁美ほむらである。「魔法少女」というシステムに隠された真実を知る彼女は、彼女のただ一人の友人である鹿目まどかキュゥべえの企みで魔法少女にされてしまう未来を変えるために魂を捧げて魔法少女になる。まどかが魔法少女になる前の世界へと戻った彼女は鹿目まどかに「魔法少女」のシステムの真実を訴えるものの、まどかが魔法少女となるように誘導するキュゥべえの巧妙な手口により、忠告の甲斐なくまどかは魔法少女になってしまう。諦めずに何度も時間の巻き戻しを繰り返す暁美ほむらは、まどかをキュゥべえの陰謀から救おうと試みては失敗するという悪夢のようなループ構造をいくつもの時間軸で繰り返すのである。このように『まどマギ』における魔法少女たちの物語は、「伝わらない」世界におけるディスコミュニケーションの苦悩に満ちている。

けっして伝わることのない想いを抱えながらグッドエンドを目指して何度も鹿目まどかを救おうとするほむらが、『まどマギ』という物語のなかのキャラクターであるだけでなく、わたしたちの側へ踏み越えた外部的な面を持つキャラクターでもあるという点には注目すべきである。そもそも暁美ほむらが何度も時間を巻き戻して同じ設定やルール(=規範)のなかでループを繰り返すという構図は、ロールプレイングゲームのプレイヤーのような側面を彼女に与えている。また、ある一定の規範が与えられた物語を何度も恣意的に読み換えているという点で、『まどマギ』における暁美ほむらの立場は、わたしたちが抱く二次創作的な欲望にも直結している。そのため、ほむらが鹿目まどかを救うための「物語」を繰り返しプレイしているという事実が明るみになった瞬間、『まどマギ』の主人公は鹿目まどかから暁美ほむらへとシフトする。わたしたちの目線は彼女の目線へと固定されてしまうのである。キャラクターに本当の意味では寄り添えないわたしたちの立場と、まどかを救えない暁美ほむらの立場は、「伝わらない」という一点によって固く結びつけられているのだ。

だから『まどマギ』において、暁美ほむらというキャラクターの内面は他のキャラクターに比べてより深く掘り下げられている。というのも、ある程度内面が深化されていない限り、わたしたちはそのキャラクターにコミットできないからである。暁美ほむらにはわたしたちを受け止められるだけの複雑な内面があった。とりわけ主人公だったはずの鹿目まどかと比べたとき、その差は歴然となる。はじめて「魔法少女になれる」と言われた時、鹿目まどか何を考えただろうか。そう、彼女はまず魔法少女の衣装を考え、それをノートに落書きしたのである。そんな彼女にいかほどの内面があったというのだろう。彼女にあるのはただ純粋なイノセンスだけだった。彼女は「魔法少女は夢と希望を与える存在である」ということを、子どもに近い感覚で信じていただけなのである。だからわたしたちは鹿目まどかのなかに、自分たちを受け止めてくれるだけの内面を見いだすことができない。まどかの内面は意図的に薄っぺらく、深層がないように描かれているからである。それに対して暁美ほむらの内面は、作中にあって常に意味深長なものとして思わせぶりに描かれている。そしてほむらの事情が明らかになってからは、その内面が執拗に掘り下げられていく。まどかに抱きつきながら「ごめんね、わけわかんないよね、気持ち悪いよね」と声を絞り出すほむらをみて、あなたは何を思い出しただろう。「気持ち悪い」、それは90年代のアニメにおける心理主義を象徴する言葉ではなかったか。暁美ほむらというキャラクターには、まさに90年代パラダイムの発想が結実している。

このようにして暁美ほむらの孤独は、わたしたちの孤独との二重写しとして描かれる。何度挑戦を繰り返してもまどかを救えず、その想いを彼女に伝えることさえできない暁美ほむらの苦悩。そして画面の中で起こる出来事をただ黙って眺めていることしかできず、魔法少女たちに寄り添うことができないわたしたちの不能感。これら2つの孤独は相似である。鹿目まどかとの約束を果たすためにほむらがどれだけ力を尽くしても、また『まどマギ』のためにわたしたちがどれだけのリソースをつぎ込んでも、それらの行為が報われることはない。報われないとわかっていながら闘い続けるというのは「絶望の道」に他ならない。そしてこの「絶望の道」こそが、魔女を生み出しているのである。

鹿目まどかによる救済と、鹿目まどかの救済

ともあれ『まどマギ』の結末を見届けたあなたは、ほむらが(それがどのような形であれひとまずのところは)救済されたということを知っている。それは鹿目まどかが魔法少女になったおかげであり、彼女によって「魔法少女」のシステムが改変されたおかげである。このようにして、魔法少女たちを救う「概念」となった鹿目まどかは、誰からも認識されず、誰にも干渉できない存在として「魔法少女」というシステムのなかに固定されることになる。完璧に「伝わらない」世界、完璧な孤独のなかに、鹿目まどかは自らすすんで身を置こうとする。これまで作中を支配していた「ディスコミュニケーションの苦悩」を、まどかはたった一人で引き受けると言っているのだ。そして付言しておくと、第10話「もう誰にも頼らない」のエピソードが、ちょうどこの時点に挿入されることになる。というのも、第一〇話においてはじめて提示される暁美ほむらの苦悩に満ちたループ構造というのは、自分の存在が消える寸前にあった鹿目まどかの視点によって描かれているに違いないからである(ここにもやはり「二重写しにされた主人公」の構図が垣間見える)。このようにして、過去と未来にあり得たすべての世界を見たまどかは、ほむらがいくつもの並行世界で自分を守ろうとしてくれていたことをここで知るのである。まどかに抱きしめられながら「ずっと気付けなくてごめん」と伝えられた暁美ほむらは、この言葉を受けて涙を流す。彼女はようやく「伝わらない」世界からの脱却を果たしたのだ。

そして鹿目まどかの言葉はほむらだけでなく、モニタを通して彼女たちを見続けてきたわたしたちをも救うことになる。まどかは言うのである「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」。ほむらの視点に立って物語を眺めていたわたしたちにとって、この台詞はあまりに鮮烈に響く。というのも、この台詞によって鹿目まどかは、わたしたちとすべての魔法少女たちとの別れを救済しているからだ。そう、わたしたちがアニメという媒体を通して魔法少女たちをみている以上、『まどマギ』に限らず、いつかは必ず最終回がやってきて魔法少女たちの時間を止めてしまうのである。これは一種の死別であり、それきりわたしたちは同じ時間を生きることができなくなる。だから、わたしたちはわたしたちの「伝わらない」世界に取り残され、部外者としてモニタの外に座っていることしかできなかった。しかし鹿目まどかのこの台詞は、わたしたちのなかに停滞するこの不能感を狙い撃ち、解体してしまうのである。最終回という避けられない死別の後でも、わたしたちに一緒にいてもいいのだと彼女は言っているのだ。それは魔法少女たちの死を救済する言葉であり、同時にわたしたちへと向けられた救済の言葉でもあった。「見えなくても聞こえなくても傍にいる」、それは不可視なるものの愛である。わたしたちの孤独は、不可視なるものに対する愛によって満たされることになる。

こうして全ての魔法少女とわたしたちを救済した鹿目まどかを待っていたのは3つめの、つまり最後の救済だった。それは彼女自身の救済であり、これによって彼女は神にならないことを許されることになる。誰からも認識されず、誰にも干渉できない存在として「ディスコミュニケーションの苦悩」を一人で背負おうとした鹿目まどかは、しかし本当の意味で一人ぼっちになることはなかった。まどかは一方的に救済し続けるだけの存在にはなれなかったのだ。なぜなら、暁美ほむらが彼女の救いとなり、彼女は報われてしまったからである。全てが終わった後でも、暁美ほむら鹿目まどかのことを覚えていたのだ。救済に報いるということは、それが完全な救済であることを無効にする行為に他ならない。絶対に報われることのない純粋で一方的な救済を成し遂げることができるのは、神のような超越者だけなのである。しかし今や、ほむらの記憶によって報われてしまったまどかは完全な神ではない。完全な救済=完全な孤独は達成されず、ほむらによって報われたからこそ、まどかは「絶望の道」を歩まずに済んだのだ。

以上、「二重写しにされた主人公」によって達成された3つの救済が、『まどマギ』の結末に2つの多義的な構造を付与することになる。1つは「暁美ほむらと、彼女と二重写しにされたわたしたち」という構造。それからもう1つは、「まどかがほむらを救い、同時にほむらがまどかの救いになる」という構造である。鹿目まどかはたしかに神となったが、しかし同時に、彼女は神になることができなかったのである。

ふたたび、暁美ほむらの孤独

全てが終わった後、暁美ほむらはふたたび孤独の中にへと身を投じることになるが、いまやその孤独はこれまでの孤独とは全く異なるものだ。たしかに、彼女は人間の闇から生まれる魔獣との闘いを最後の一人になるまで続けていかなければならない。にもかからわず、彼女はこれまで彼女が歩んできた「絶望の道」からは、いまやもっとも遠い場所にいる。そう、いまや彼女の孤独は「報われる孤独」なのである。有意義な孤独と言い換えてもいい。まどかによって新たにつくられた「魔法少女」のシステムは、魔法少女たちが「絶望の道=報われない孤独」に囚われ、魔女化してしまうことをけっして許さないのだ。たしかにこの世界においても、彼女たちの祈りはやはり叶わないかもしれない。そこは相変わらず「伝わらない」世界であり、ディスコミュニケーションの苦悩は依然として解消されていないのかもしれない。しかし、それでも魔法少女たちは、最後まで闘い続けることができる。孤独のなかにありながら、絶望の道へと足を踏み入れることなく、力つきるまで闘い続けることができる。あなたは終幕の直前に挿入される暁美ほむらの戦闘シーンを思い出すことができるだろう。すべての魔法少女がいなくなるまで闘い続け、最後の魔法少女となったほむらがついに倒れることで、「魔法少女」という概念=鹿目まどかのもとに召されるあのシーンだ。たしかに、けっして叶わない祈りのために闘う魔法少女の生は、荒野を歩む戦士の生と同じものなのかもしれない。しかし魔法少女たちは、そして暁美ほむらに二重写しにされたわたしたちは、まどかによって異化された孤独のおかげで、最後まで絶望することなく闘い続けることができるのである。

ほむらの孤独は異化され、それは愛へと変貌を遂げた。もはやその孤独は、一般的な意味での孤独ではなくなっている。それは暁美ほむらにとってだけでなく、わたしたちにとっても同様である。ほむらとわたしたちは、まどかの到来を、彼女のまなざしとして感知することができる。たとえ鹿目まどかが不可視なるものであったとしても、わたしたちは彼女の愛をこうして感じ取ることができるのである。なぜならまどかは言ったのだ、「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」。最後の闘いにおもむく暁美ほむらへと向けられたこの鹿目まどかの言葉を、わたしたちはいつでもどこにいても、感知することができるのだから。

暁美ほむらとわたしたちに訪れた新しい孤独。それは「伝わらない」世界における、1つの愛の形なのである。ただ、その愛が目に見えないというだけで。

朝吹真理子『流跡』

流跡

流跡


久しぶりにすごいものを読んで興奮してます。EnJoeToh氏が読書メーターで「これはすごい」と言ってたので、そんなにすごいものなのかと思ってさっそく買って読んでみたところ、なんとこれがすごかったんですね。ネタバレを気にしないで書きます。

去ね、去ね、去ね。何度意識を失おうとしてもいっこうに明瞭なまま。いったいいつまでこうしているのか。この身体が、やっぱり死んでいるのか教えてほしい。しかし誰もいない。ぼんやり空を見る。灰色の光が葉と葉の合間から射しこむ。雲が魚腹にも流れてゆくことをこばんだ東雲にもみえる。苔むした目からそれがみえる。いったいどうして。この身体をみているのが目なのかもわからない。この目がみえているのかもわからない。この目が誰の目かもわからない。死んでいないし生きていない。夜も朝もだいぶ遠いようである。

こうした調子で終始ぼんやりとただよう語り手が、みずからの置かれた状況を二転三転させながら、なにかしらの魅惑的な幻想をつぎつぎと綴ってゆくのですが、ともかく落ち着き払った文章が印象的で、これがデビュー作であるというのはちょっとした驚きです。
さて、めくるめく読書を終えてふと考えたのは、この小説の語り手についてのことです。この小説の語り手には輪郭というものがなく、はじめ読者だったものがあるときは作者であったり、男だったものが女になったり、しまいには人ではなく「もののけかおにか、猫になったほうがよかった」と零したりします。本文の言葉を借りれば、この小説では「ひとやひとでないもの」との区別があいまいなんです。
思うに流跡とは、ひとがひとになる前、もののけもののけになる前、おにがおにになる前の「もの」どもの流れた跡なんじゃないか。つまり「ひとやひとでないもの」の記憶のようなものが、この小説の語り手の正体なのではないでしょうか。冒頭の文章が示唆的です。

細胞液や血液や河川はその命脈のあるかぎり流れつづけてとどまることがないように、文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか。綴じ目をつきやぶってそして本をすりぬけてゆく。流れてゆこうとする。はみだしてゆく。しかしどこへ――

「ひとやひとでないもの」を書きつけようとしても、それはたえずすりぬけてゆくし、それ自体を眺めようとしてみても、読みとろうとしてみても、それはとどまることなくはみだしてゆくのでできない。われわれの前に残されるのは、そのものがたしかに流れていたという痕跡だけであって、だからこの小説はこれ自体が、あるひとつの流跡だったのではないでしょうか。

舞城王太郎あるいは小説のための小説のための小説家

だいぶ前に書いた文章をサルベージしたので掲載します。

ゼロ年代を代表する作家として知られる覆面作家舞城王太郎。小説のために小説を書く作家というものがあるのだとすれば、彼は現在、その中で最も意識的な書き手のうちの一人である。ここでさっそく『暗闇の中で子供』の一節を引用したい。

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。
本物の作家にはこれは自明のはずだ。ドストエフスキートルストイトーマス・マンプルーストみたいな大長編を書く人間だってチェーホフやカーヴァーやチーヴァーみたいなほとんど短編しか書かない人間だって、あるいはカフカみたいなまともに作品を仕上げたことのない人間だって、本物の作家ならみんなこれを知っている。ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。(中略)むしろだからこそ、こう考えるべきなのだろう。逆なのだと。作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。

嘘=フィクションというものに関して非常に自覚的に小説を書いているのが舞城王太郎だ。ミステリ・SF・純文学などのジャンルも、それがフィクションであるという一点においては凡そ区別がつかない。だから彼は、そのレベルにあって小説を書き続けている。そういった内容的な区分、また短編・長編などの形式的な区分、さらには小説好きなのか漫画好きなのか映画好きなのか、大衆相手なのかハイカルチャー相手なのかなど、あらゆる区別を俯瞰・超越しながら、彼は小説という言語表現のフィールドで踊り続けている。彼は「小説」のための小説を書いている。さらに言えば、『「小説」のための小説』のために小説を書いている。それゆえに舞城が書く小説にはメタ視点があふれているし、文体が特徴的になっているし、ガジェットの引用が過剰なのだ。そう、これらの特徴には、すべてに一本のつながりがある。
そしてこのつながりをみていくために、本論はある。

「小説」のための小説

小説には二種類しかない。「小説」を目的とした小説と、それ以外を目的とした小説。この二つだ。

前者で言うところの『小説』とは、すなわち文学(=言語表現による芸術作品)の一形式としての小説そのものを指している。詩作やエッセイに対する小説、そして絵画や映画に対する小説、そういうわけだ。また一方で、後者の言う「それ以外」の目的には、たとえば「物語」だとか「啓蒙」、または「トリック」や「科学的知見」などが当てはまるだろう。つまりここではまず、巷のあまねく小説を、『小説』という表現形態そのものに寄与するものと、そうでないものとに分けて考えてみようというわけである。前者の小説を、以後、「小説のための小説」と呼んでいくことにする。

ただし「小説のための小説」などと大仰に言ってしまったけれども、そこには決して芸術分野としての「小説」を発展させてやろうだなんて崇高な目的はなくて、「小説とは何だろう」とか「小説で何ができるんだろう」とか考える人間であれば誰にだって書く可能性のあるものだということである。

自明のとおり、小説は言葉をしか持たない。絵画は視覚を持ち、映画は視覚と聴覚、そして言葉とを持っている。だが小説にはたった一つ、言葉しかないのだ。必然、表現の幅は狭まって行くように思われる。にも関わらず、なぜ小説はこの現代においても脈々と生きながらえてきたのだろうか。それはきっと、むしろ小説が言葉をしか持たなかったからであろう。言葉をしか持たなかったからこそ行き詰まり、模索が始まり、ブレイクスルーが為され、そうやって小説はいままで続いてきたのだ。それに寄与するのが「小説のための小説」なのである。

「集客力」について

舞城王太郎の作品には、おしなべて強力な(偏った)「集客力」がある。つまりは客引きの力だ。なんのための客引きか。むろん「小説」のためである。そのひとつの論拠として、舞城王太郎の作品に一貫して見られる特徴的な文体がある。

彼の文体を特徴づけているものはいったい何かというと、それは端的に言うならば、「かったるさ」の徹底的な排除にある。彼の小説からは凡そ風景描写や客観的考察などと呼ばれるものの一切が見受けられず、すべては主人公の一人称による一方的な独白・内省(合わせて内白とでも呼ぶべきか)によってなりたっているのである。これにより舞城王太郎は、読むことの「かったるさ」をできるかぎり排除し、俗に言われる「ドライブ感」を獲得するにいたった。

ではそもそも、なぜ「ドライブ感」が選択されたのだろうか。そこには必ず戦略的な動機が潜んでいるはずだ。じつはこの理由に、舞城の作家としてのあり方が集約されているのだと考える。

彼の小説の文体は少々偏った意味でフレンドリーだ。ふだん小説を読まない読者層、たとえばテレビドラマや漫画や映画を愛する人間だとか、サブカルチャーを愛好する層などに向けて、彼の作品はあるのではないか。そういった意味で、彼の小説は「集客力」にあふれている。

風景描写や客観的考察を排除しようとすれば、当然表現の幅は狭くなるだろう。また一人称による語り・内省だけで地の文を構成するとなればワンパターンに陥りやすいことは目に見えている。そうしたリスクの中で、しかし舞城はデビュー以来一貫してそのスタイルを貫いている。そしてその狙いというのが、「かったるさ」の排除による(そのままでは文学に興味を持たないであろう)読者層の開拓なのではないか。彼の文体の「ドライブ感」は、「集客力」を獲得するために必然的に選択された手段だったのだ。

文体の話に限らず、舞城作品が強い「集客力」を持つという事実は、彼の作品に「引用」があふれているということからも窺える。たとえば『煙か土か食い物』においては、すぐ確認できるものだけでもこれだけの引用が見られる。

その他、音楽や映画に関する引用も数多くみられる。特に奈津川サーガや『九十九十九』、『ディスコ探偵水曜日』などには、ミステリからのガジェットが数多く使われている。上に引用したもの以外の作品でも、刺激的なミステリ的ガジェット(密室や見立て、過度な嗜虐性、無茶なトリック)が多くみられている。このようにして舞城は、他人のガジェットを再構築して小説を書いているようにも見受けられる。そしてそれらのガジェットの引用について、彼は開けっぴろげにネタ元を晒していくのだ(ふつうの作家はわかりやすい引用を避ける傾向にある)。この引用の「わかりやすさ」は、彼の作品すべてに通底しているものだ。

このようにわかりやすいガジェットの借用がなにをもたらすのかというと、これは間違いなく「集客力」に寄与している。強力なガジェットによって構成された物語はエンターテイメント性に富む。また、ミステリなどジャンル小説の読者や、サブカルチャー方面の読者層を取り込むことにもつながる。現に村上春樹レイモンド・カーヴァーレイモンド・チャンドラーなどをわかりやすく引用することで「村上春樹チルドレン」と呼ばれるようになってからというもの、そちら方面の客層をも取り込むようになったのではなかったか。

文体のフレンドリーさと引用のわかりやすさ。そしてこれらの要素によって作り上げられた舞城作品の偏った「集客力」。それが何をもたらすのかについて、次節で見ていく。

「小説のための小説」のための小説

「小説のための小説」と「集客力」という道具を得たところで本題に入ろう。ここで述べるのは、舞城作品の「集客力」が何をもたらすのかということだ。

これを見ていくために、ここでは二つの例を挙げる。ひとつは物語のコード(不文律)に対する舞城のスタンスについて。もうひとつは、ひとつの作品の中に複数の物語を包含するということについてである。

まず物語のコード(不文律)について。このコードというのはすなわち、物語を読む上での約束事のことである。俗に言う「死亡フラグ」だとか、その他の確立された演出やそうした手法はすべてコードだ。小説のコード、映画のコード、ドラマのコード、演劇のコードなど、あらゆる物語にはコードが満ち溢れている。例えばアクション映画において登場人物が銃撃されて出血するという演出があったとしよう。ここでその赤い液体が血であると認識できたのは映画のコードを知っているからであり、そうでなければそれは血糊であるとしか認識できないはずである。

世の中にある小説のほとんどはコード通りに書かれている。これは小説に限った話ではなく、一般のテレビドラマなどはそのすべてがコードによって構成されていると言ってしまって差し支えないだろう。わかっていてそれを受容するのであれば問題ないのだが、それがわからない客層というのも確かに存在しているのではないだろうか。舞城の書く小説がもつ「集客力」は、そうした客層をも取り込む。そしてその小説は、彼らに「物語のコード」というものの存在を知らせるのだ。

以下は『好き好き大好き超愛してる。』からの引用だ。

慶喜君は中二の夏くらいから、学校の友達は「友達」としてメタ化されてて俺のこと救えない、などと言いだして、よく学校をサボるようになっていた。単にうまく友達が作れないだけだ、と言って柿緒も賞太も三人の父親と母親も慶喜君を叱ったが、僕は慶喜君の言う「メタ化」された人間関係が既に出来上がっている状況で「本物の友達」を作ることの難しさ、あるいは不可能性について、何となくリアルに想像できて、一度慶喜君に「まあ友達なんて頑張って作んなくていいんだよ。友達なんてさ、基本的には作るもんじゃなくてできるもんなんだからさ」と言ったら慶喜君も僕の言うことがちょっとわかったらしくて、それ以来僕のことを、慕うとまではいかないけれどそんな感じで、前よりも親しく付き合うようになった。たぶん慶喜君の言う「メタ化された友達」と言うのは、相手と自分の間でお互いにとっての「友達」というものの役割が同一のものとして共有されていること、つまり「友達とはこういうもので、こういう場合にはこうするもの」という共通理解がされてしまっているということだろう。そのせいできっと。慶喜君は、同級生たちと一緒にいるときに、相手が(自分が)気持ちとしての友情からすべてをしているのか、「友達」としての役割を演じるためにそうしているのか、うまく判断がつかなくなっているんだろう。

「メタ化された友達」というのは、物語のコードを越えた、日常生活におけるコードである。この作品に限らず、舞城の作品にはしばしば、コードそのものがテーマとして現れている。

世の中にある小説のほとんどはコード通りに書かれている、と書いたが、それがコードであると他ならぬその小説の中で書いてしまう作家というのがいる。その最たる例がD・バーセルミ高橋源一郎、あるいは中原昌也なのであり、彼らの小説はまさに「小説のための小説」なのであった。
そして舞城の作品は、彼らの「小説のための小説」へと読者を導く役割を持ち得るのではないか。この意味で彼の作品は「小説のための小説」のための小説であると言えるのではないか。コードを作品の中でしばしば扱っているということから、それが推測される。

さて、次にもう一つの例に移ろう。これについて言いたいことはそう多くはない。ひとつの作品の中に多数の物語を包含することについてなのだが、その最たる例は言うまでもなく『九十九十九』である。

ポストモダニズムの文脈からメタ物語的な構造を用いることで、『九十九十九』は、「大きな物語」が死んだ世界に生きる我々の問題を見事に描き出している。逆にいうと、このような問題を扱うために『九十九十九』は、あの入れ子構造をとらざるをえなかった。ある題材を扱うために、複数の物語を消費していくというポストモダニズム文学の特徴が、ここには現れている。

さて、このように複数の物語を内包したこの作品が「小説のための小説」のための小説たる所以とは何か。そのことは、単に一度読んでみただけではっきりとわかるようになっている。いやむしろ、すぐにはっきりとわかることこそが重要だった。

なにかというと、あれほど複雑な入れ子構造を強調した作品であれば、読者はみな、まずはその構造に注目するだろうという点。『九十九十九』は、「ある題材を扱うために複数の物語を消費していくという現代文学のあり方」そのものを提示しているのではないか。それを読者にわかりやすく示すという役割を、この作品は負っていたのではなかったか。これは、『九十九十九』が「小説のための小説」のための小説であるとする、ひとつの証左だ。

九十九十九』に限らず舞城作品には、題材のために複数の物語を消費するという構造がわかりやすく書かれているものがいくつもある。『ディスコ探偵水曜日』や『暗闇の中で子供』、そして『好き好き大好き超愛してる。』もそのように読むことができるだろう。

「小説のための小説」へと誘導するための、『「小説のための小説」のための小説』。舞城作品の潔さがここにある。

結び

「文化のネオリベ化」とも言うべき現象を嘆く人間にとって、ゼロ年代はまさに受難の時代となったことだろう。サブカルチャーの隆盛に対して教養主義者たちが鳴らす警鐘は、しかしいつの時代においても消えたことはなかった。舞城王太郎の小説は、たしかにサブカルチャー的要素でもって構成されている。とはいえ彼の作品には、読者をメインカルチャーへと志向させる力がある。サブカルチャーの中にどっぷりと足を突っ込みながら、その外へとは言わないまでも、その境界線について読者に考えさせるための、確固たる戦略を持っているのだ。「大きな物語」を失い、行き場を見失った現代のメインカルチャーが、いったいこれからどこへ向かっていくのか。そのことについて真摯に考えるための機会を、舞城作品はわれわれに提供しているのである。

さて、このように舞城王太郎の作品について主に論じてきたわけだが、最後にこの作家について少しだけ触れておきたい。

以下に引用するのは『暗闇の中で子供』のTHREEでの一節、三郎=クラリスとレクター博士が湖の上で対峙する場面だ。あのトマス・ハリスの第四長篇『ハンニバル』のワンシーンを引用したものである。

「このガラスケースが気になるかい、クラリス?」
「気になると言うよりも、不思議に思っているのよドクター・レクター。その場所にどうやってあなたが含まれてしまったのかということについて」
「君にはこのガラスケースが、私を閉じ込めるためのものに見えるんだろうね、クラリス」
「でも、どうしてもそのようにしか見えないわ」
「いいかいクラリス。単純な視点の転換を君も試してみるのだ。私の位置と、君の位置とを実際に置き換える必要はない。必要なのは塑像力だ。大きさによる先入観を取り払ったより自由な想像力を用いるのだ。さてクラリス。君の周りに、君を取り囲むようにして地面に小さな円を描いたとき、その円は果たして本当に、君を内側に閉じ込めているのかい?それともその円は実際のところ、その外側に世界を閉じ込めているんじゃないのかな?そもそも球体の表面に存在する円に、内側も外側もあるのかな?」
ああなるほど。
同様に、空間の中に存在する密閉されたガラスの箱にも厳密な意味での内側とか外側とかはない。あのガラスの箱はポプキンス=レクターを閉じ込めているだけじゃなくて、同時に彼以外の、俺を含んだ世界全体もまた閉じ込めているんだ。

指摘するまでもなくこの引用部分は、脱構築という概念の単純なアナロジーとなっている。すなわち、文学=メインカルチャーの脱構築である。

サブカルチャーの側に立ちながらメインカルチャーを志向させ、それらの境界を意識させる作品を世に問い続けてきたのも、結局は文学を脱構築し、純文学とエンタメ小説・ジャンル小説との境界線を捉えなおしたいがためだったのはないか。そう、このために舞城は、「小説のための小説」のための小説家なのである。

ゼロ年代が終わりつつある今、きたるべき10年代において、宙づりになって久しいわれわれの「小説」はいったいどこへと向かっていくのか。いま「小説のための小説」のための小説家は、われわれをどこへ志向させようというのか。

舞城王太郎から、今後も目が離せない。